第15話 春昼のざわめきと、ほどけない強がり 3
一限前の教室は、もうそれなりに騒がしかった。
椅子を引く音。机の間を抜ける足音。開けた窓から入る春の空気も、教室の匂いにすぐ混ざる。その中で、水瀬の声はよく通った。
「だから絶対そっちの方がよくない?」
「何が絶対なの」
小坂が呆れたように返す。
「いや、だって写真見た? めっちゃよかったじゃん」
「莉愛、写真だけで決めるからなあ」
柚木が笑った。
「玲奈も昨日いいって言ってたじゃん」
「いいとは言ったけど、絶対とは言ってないし」
「裏切り者」
「重っ」
三人の会話はそのまま続いていく。柚木は水瀬に返して、小坂の一言に笑って、途中から入ってきた別の話にも乗る。顔まわりを気にするでもない。制服のどこかを確かめるでもない。いつもの香水はする。俺には十分強いが、それも今さらだ。柚木が近くへ来れば分かるし、離れれば薄くなる。
俺は窓側へ少し距離を取ったまま、次の授業の準備をした。昨日も、こんなものだった。一昨日のことがなければ、何も気にしなかったと思う。
「ねえ、水瀬さんたちって今日教室で食べる?」
近くから声がした。
見ると、水瀬たちの輪の外にいた女子が二人、机の横で立ち止まっている。
顔は知っている。同じクラスだから当然だ。
ただ、水瀬や小坂と比べれば、柚木と話しているところはあまり見たことがない。
「あ、食べるよ」
水瀬が答える。
「よかったら今日一緒に食べない? 新しいクラスになってから全然話せてないし」
「いいじゃん」
先に乗ったのは柚木だった。
「食べよ食べよ。人数多い方が楽しそう」
「ほんと? じゃあ混ざる」
「全然。机どうする?」
「そこは昼になってから考えよ。今動かしたら邪魔でしょ」
小坂の一言で話がまとまる。
柚木は笑っていた。声も表情も、今のところ普段と変わらない。誘われたから仕方なく、という感じでもなかった。誘いはそのまま昼の予定になった。
二限が終わった休み時間。
教科書をしまっていると、斜め前で柚木が顔まわりの髪を指先で整えていた。
珍しい動作ではない。髪が乱れれば直す。制服がずれていれば戻す。それくらいは誰でもやる。
柚木も一度整えただけで、そのまま水瀬に呼ばれて席を離れた。だから、その時は気にしなかった。次に目についたのは、さらに一つ授業を挟んだあとだった。柚木が席へ戻りながら、制服の襟元を軽く直す。座ってから袖を見る。それから前髪に触れた。
「優花」
「ん?」
「今日、ここ変じゃない?」
柚木が自分の顔まわりを指した。
小坂は一度だけ見て、
「別に。いつも通りじゃない?」
「ならいっか」
柚木はそれ以上気にしなかった。鏡を出して延々と確認するわけでもない。小坂に何度も聞き直すわけでもなかった。
ただ、今日は回数が多い。何が、とは言いにくい程度に。柚木の香水は朝から変わっていない。俺の鼻では、急に濃くなったようには感じない。なら、単に髪が気になる日か。服の収まりが悪いだけかもしれない。そもそも、身だしなみを気にすること自体は何もおかしくない。そこまで考えて、やめた。
授業が始まった。
午前最後の授業が終わる。昼休みになった途端、教室の空気が一段動いた。
弁当を出すやつ。購買へ向かうやつ。別のクラスへ行くやつ。俺も机の上を片づけていると、水瀬たちが椅子を動かし始めた。
「こっち寄せれば入る?」
「たぶん。玲奈、そっちちょい詰めて」
「はいはい」
柚木が椅子をずらす。そこへ、朝に話していた女子たちが近づいてくる。その直前だった。柚木の手が一度だけ髪へ上がった。顔まわりを整えて、続けて制服の襟元を指でなぞる。ほんの数秒。それから何事もなかったように顔を上げた。
「あ、こっち空いてるよ」
声は明るい。朝と同じ柚木だ。
そこで、午前中に散らばっていたものが繋がった。水瀬や小坂と話す前には、こんなことをしていない。昼の予定が決まったあとから、少しずつ増えた。そして、相手が来る直前にもう一度。香水は変わっていない。むしろ、香りだけを見ていたら何も分からなかった。
髪も制服も、普段から柚木が選んでいる格好だ。違うのは、それを確かめる回数だった。
慣れてない相手と一緒になる時ほど、外から見える自分を細かく整える?そこまで考えたところで、もう一つ可能性が残った。単に、今日の昼が気乗りしないのかもしれない。俺は自分の昼飯を出した。答えは、すぐ近くで始まった。
「そういえばさ、今日の二限の板書、後ろから見えた?」
柚木が口火を切る。
「見えないとこあった」
女子の一人がすぐに返した。
「だよね? あたし途中で三回くらい諦めた」
「三回は早くない?」
「だって字ちっちゃいんだもん」
「玲奈、普通に諦めるんだ」
水瀬が笑う。
「諦めるよ。あたしを何だと思ってんの」
「なんか全部うまいことやる人」
「雑な評価やめて?」
笑い声が重なる。そのあと話題は別のものへ移った。今度は柚木が中心じゃない。朝に声をかけてきた女子が話し始めて、水瀬が食いつき、小坂が途中で一言挟む。柚木は聞いていた。必要なところで笑って、ときどき短く返す。話が切れそうになったから慌てて別の話題を出す、ということもない。
「それ、分かる」
「え、ほんと?」
「うん。今日あたしも同じこと思った」
そんなやり取りもあった。相手が柚木に直接話しかければ、柚木も直接返す。誰かを間に挟まない。食事が進むにつれて、最初より声が重なるようになった。何か揉めることもない。誰かが置いていかれることもない。柚木が全部を回しているわけでもない。ただ何人かの高校生が、昼休みに机を寄せて飯を食っている。誰かが場を支える必要もないまま、昼休みは進んだ。
「また一緒に食べよ」
終わり際、女子の一人が言った。
「いいよ。今度そっちの話も聞かせて」
柚木が返す。
その顔にも、変わったところはなかった。予鈴が近づけば机は戻される。女子たちはそれぞれ自分の席へ散っていき、水瀬は何か言いながら小坂の机へ寄っている。柚木も自席に戻り、午後の教科書を出した。さっきまでの昼食が特別な出来事だったような空気は、もう残っていない。俺も次の授業の準備をする。
水瀬や小坂といる時にはなかった確認が、昼の予定が決まってから増えた。それでも、昼そのものは楽しんでいた。なら、気が進まないから準備していたわけじゃない。慣れていない相手がいる時ほど、外から見える自分を細かく整える。髪も、制服も、話し方も。その一式の中に、あの香りもある。
チャイムが鳴った。俺は前を向く。
楽しい場所へ行くのに。
あいつは、何に備えてるんだ。




