第14話 春昼のざわめきと、ほどけない強がり 2
「見て。これ、限定のやつ」
昼休み、水瀬がポーチから小さなアトマイザーを取り出した。手のひらに収まる程度の細い容器を、向かいにいた柚木が覗き込む。
「へえ、いいじゃん。莉愛こういうの好きそう」
「でしょ? 最後の一個だったんだから」
「それは勝ち」
「めっちゃ勝ち」
水瀬は満足そうに笑って、近くの女子にも見せている。ひとしきり話し終えると、アトマイザーはまたポーチの中へ戻った。午前の共同作業が終わってから、柚木はいつも通り水瀬たちのところにいる。俺の近くに残る理由もないし、向こうもそんなことは考えていないらしい。
弁当の匂い。購買のパン。開いた窓から入ってくる、少し湿った春の空気。そこへ教室に残った香料や整髪料が混ざる。昼休みとしては普通の範囲だ。水瀬の笑い声も、その中の一つだった。五時間目が始まる前、前の方の席で藤崎がハンドクリームを使っていた。
蓋が開いた直後、教室の雑多な匂いの中に別の輪郭が一つ増える。強烈というほどじゃない。ただ、周囲の香料と混ざっても判別できる程度には特徴があった。藤崎はクリームを両手に伸ばし、手の甲まで馴染ませる。
鼻の奥には残ったが、呼吸を変えるほどでもない。商品名までは知らない。隣の女子に何か言われた藤崎が笑って、蓋を閉めた。その少し後、水野が教師に呼び止められる。
「水野、図書委員の提出、今日だったよな。これも職員室に持っていってくれ」
「はい」
何枚かの書類を受け取って、水野は教室を出ていった。普段から目立つ方じゃない。だからというわけでもないが、図書委員だとは知らなかった。同じクラスでも、全員の係まで覚えているわけじゃない。
チャイムが鳴った。少しして水野も戻り、教師が入ってきて、それで五時間目が始まった。
問題が起きたのは、その次の休み時間だった。正確には、問題と呼ぶほどのものでもない。
「藤崎さん、それあとでちょっと貸して」
水瀬が藤崎の机に手をつき、ノートの上を指した。藤崎が使っていた蛍光ペンだった。
「今使ってるから待って」
「いや、今すぐって言ってないし」
水瀬の声から、さっきまでの軽さが半段だけ落ちた。藤崎も顔を上げる。
「だから、今使ってるって言ってるだけなんだけど」
「だから私も、あとでって言ったじゃん」
内容だけなら、ほとんど噛み合っている。水瀬は今すぐ欲しいわけじゃない。藤崎は貸したくないわけじゃない。
問題になっているのは、そこじゃない。言葉の端だけが引っかかって、いつの間にか「何を言ったか」ではなく「どういう言い方をしたか」の話になりかけている。
面倒なやつだ。俺ならそのまま放っておく。実際、数分もすれば勝手に戻る程度かもしれない。俺がそこまで整理した頃には、柚木が二人の間へ入っていた。
「ちょい待ち。美緒、それ使い終わったら貸せるんでしょ?」
「貸せるよ」
藤崎がすぐに答える。柚木は今度は水瀬を見る。
「莉愛は次の授業までにあればいい?」
「うん。ていうか、最初からそのつもりだけど」
「じゃ、美緒が使い終わったら莉愛に回せば間に合うじゃん」
二人が一瞬黙った。先に水瀬が肩の力を抜く。
「……まあ、そう」
「私もそれ言ってたつもりなんだけど」
藤崎が眉を寄せる。柚木は軽い調子のまま返した。
「後半、省略しすぎ。莉愛も言い方ちょい強い」
「え、私も?」
「二人とも」
「玲奈だけ急に先生みたいなんだけど」
「はいはい。じゃ、解散」
水瀬が笑った。藤崎も「なにそれ」と返して、ノートへ視線を戻す。二人の間にあった硬さは、そこで消えた。
こういうのは、本当に上手い。二人が言い落としていたところだけを拾って、短いやり取りで元に戻した。ここまでは、何もおかしくない。むしろ、俺にはできないことだ。
六時間目が始まる前、藤崎は使い終わった蛍光ペンを水瀬の机へ置いた。
「はい」
「あ、ありがと」
「次までって言ってたでしょ」
「うん。助かる」
それだけで、水瀬はペンを筆箱へ入れ、隣の女子との話へ戻った。藤崎も自分の席へ戻り、次の授業の教科書を出す。少なくとも見える範囲では、さっきの言葉の引っかかりを気にしている様子はない。
柚木が間に入った仕事は、もう終わっている。だから、その少し後。
「莉愛、さっきの平気?」
水瀬の席へ寄った柚木の声が聞こえて、俺は顔を上げた。
「さっき?」
「美緒のやつ」
「ああ。平気だけど」
水瀬は筆箱を指で叩く。
「もう借りてるし」
「ならよかった」
柚木は笑って、自分の席へ戻った。確認するほどのことだったか。そう思ったが、まだ一回だ。念のためということもある。
六時間目が終わった。
帰りのホームルームまでの短い時間。教科書を鞄へ押し込む音と、椅子を引く音が教室のあちこちから重なる。その中で、今度は藤崎の席へ寄った柚木の声が聞こえた。
「莉愛の方、もう怒ってなかったよね?」
藤崎は鞄へ教科書を入れながら振り返る。
「怒ってないでしょ。普通だったし」
「そっか」
「ていうか、もう貸したよ?」
「うん、見てた。念のため」
藤崎は不思議そうな顔をした。
「玲奈、気にしすぎじゃない?」
「そう?」
柚木は軽く笑った。
「まあ、なんもないならいいや」
それで離れる。
二度目。
水瀬も藤崎も、とっくに別のことをしている。それでも柚木だけが、終わった話を拾い直した。午前は、自分の案が通らなくてもそこで止まれた。違うのは、一度、目の前で人同士が噛み合わなくなったこと。今のところ拾えるのは、それくらいだ。
帰りのホームルームが始まる少し前、柚木が自分の席へ戻る途中で俺の机の横を通った。
「柚木」
「ん?」
足が止まる。
「さっきの、水瀬と藤崎。まだ何か残ってたのか」
柚木は一度瞬きをした。
「いや、もう終わってるけど」
即答だった。
「じゃあ、なんで二人に聞いてた」
「ああ」
柚木は納得したように小さく声を漏らす。
「念のため。あとで変な感じになるより、今ちょっと見といた方がよくない?」
「終わってるのは分かってたんだな」
「そりゃ分かるよ。あの二人、もう普通だったじゃん」
「なら、別に何もしなくてもよかっただろ」
「まあ、そうなんだけどさ」
柚木は苦笑する。否定はしなかった。それから目を細める。
「神崎、そういうとこほんと見てるよね」
「見えてたからな」
「その返し、便利すぎ」
呆れたように笑って、柚木は自分の席へ戻った。
追う理由はない。問題が残っていると勘違いしていたわけじゃない。そこまでは本人の言葉で確認できた。やがて帰りのホームルームも終わった。
水瀬が柚木を呼ぶ。柚木はすぐに返事をして鞄を持ち、いつもの調子でその輪へ入っていった。藤崎も近くで別の女子と話している。少なくとも、午後のやり取りを引きずっているようには見えない。柚木だって、そう見える。
なのに、終わった話だけは二度拾った。




