第3話 湯浴みも戦場です
「ナターシャ、今日は少し早めに湯浴みをしたいのだけれど」
午後のひと騒動(主にお嬢様の転倒三回と、謎のカップ破壊事件)を乗り越えた頃、お嬢様は穏やかにそう言いました。
「かしこまりました」
(湯浴み……)
これは、比較的安全な時間のはずです。
動きも少ない、危険物も管理できる、私の目も行き届く。
(ここでようやく、落ち着けるかもしれない……)
そんな淡い期待を胸に、私は準備を整えました。
⸻
湯気がふわりと立ち上る浴室。
香草を浮かべた湯は、優しく香り、心を落ち着かせます。
「まあ、いい香りね」
「本日は鎮静効果のあるものを少し多めにしております」
「私、荒ぶって見えるかしら?」
「かなり」
「まあ」
まあ、ではありません(二回目)。
「ではお嬢様、ゆっくりお入りください。滑りやすいので——」
言い終わる前でした。
「きゃっ」
「お嬢様!?」
ツルッ。
見事なまでに足を滑らせ、そのまま——
ドボン。
綺麗に湯船に収まりました。
奇跡的に怪我はなさそうです。
「……大丈夫よナターシャ」
湯の中から、にこやかな声。
「“大丈夫よ”で済ませるには今の入り方は高度すぎます」
「少し勢いがついただけよ」
「完全に転倒でした」
私は即座に返しました。
(油断した……! 浴室でもダメなの!?)
⸻
「ではお背中をお流ししますね」
「お願いするわ」
気を取り直し、私は丁寧に泡を立てます。
ここは慎重に。
丁寧に。
確実に——
もこもこもこもこ。
(……あれ?)
泡が。
増えます。
明らかに、増えすぎています。
「ナターシャ、泡が」
「はい」
「すごいことになっているわ」
「見ればわかります」
湯船の半分が、泡に侵食されていました。
「……少し多かったかもしれません」
「少し?」
「……だいぶ」
認めました。
ですが問題はそこではありません。
「お嬢様、少し動かないでください。泡で足元が見えません」
「ええ」
その瞬間。
ぐらり。
「きゃっ」
「お嬢様!?」
泡に足を取られ、再びバランスを崩しかけるマリアーナ様。
私は即座に手を伸ばし——
がしっ。
支えました。
「……危ないです」
「ありがとうナターシャ」
「いえ、問題はそこではありません」
私は静かに言いました。
「なぜ“動かないでください”と言った直後に動くのですか」
「泡が楽しくて」
「理由が子供です」
⸻
その後。
ようやく落ち着いたかと思われた矢先。
「ナターシャ、これなにかしら?」
「それは香油で——」
つるん。
「きゃっ」
「お嬢様!?」
今度は手元から瓶が滑り、湯の中へ。
しかも中身がしっかり流出。
ふわぁぁ……
強烈な香りが浴室いっぱいに広がりました。
「……いい香りね」
「濃すぎます」
「そうかしら?」
「三日くらい残ります」
「まあ」
まあ、ではありません(三回目)。
⸻
そして。
すべてが終わった頃には。
「……お嬢様、本日はお疲れ様でした」
「楽しかったわ」
満足げなお嬢様と、
ぐったりとした私がいました。
(湯浴みでこの消耗……)
信じられません。
本来、最も癒やされる時間のはずです。
それがなぜ。
こんなにも。
戦いだったのでしょうか。
「ナターシャ」
「はい」
「明日も一緒に入ってくれる?」
「……もちろんでございます」
断る理由は、ありません。
ええ、ありませんとも。
(この人、一人で入れたら絶対ダメだ)
私は心の底から確信しました。
湯船ですら安全ではない。
むしろ危険ですらある。
——ラファーム侯爵家。
本日もまた、新たな現実を思い知らされました。
(次は何が起きるの……)
そんな不安だけが、静かに胸に残るのでした。




