第20話 役目の終わりと、その先にあるもの
——よかった。
心の中で、静かにそう思いました。
バルコニーの向こう。
寄り添う二人の距離は、もう疑いようがないほど近くなっていて。
言葉にしなくても伝わるものが、そこには確かにありました。
(……終わりましたね)
私の役目は。
お嬢様を支え、導き、守ること。
その先にある“幸せ”へと辿り着かせること。
そして今。
(辿り着きました)
私は一歩、静かに下がりました。
気づかれないように。
邪魔にならないように。
いつものように。
——“たまたま近くにいる侍女”として。
そして。
(……これで、十分です)
⸻
胸の奥が、少しだけ軽くなって。
同時に、少しだけ——空いた気がしました。
(ここから先は)
(お嬢様の人生です)
私がいなくても。
きっともう、大丈夫。
支える人は、他にもいる。
アーヴィン様がいて。
家族がいて。
(私は——)
一歩、さらに距離を取ります。
(役目を終えた侍女です)
「……ナターシャ」
声がしました。
低く、落ち着いた声。
振り向かなくても、誰かわかります。
「どこへ行くつもりですか」
レオンでした。
「……少し、距離を取ろうかと」
私は、静かに答えます。
「役目は果たしましたので」
言葉にすると、やけにあっさりしていて。
けれど、それが事実でした。
少しの沈黙。
そして。
「——逃げないでください」
はっきりとした声でした。
思わず、振り向きます。
レオンは、まっすぐこちらを見ていました。
⸻
「……逃げてはいません」
私は即答します。
「立場をわきまえているだけです」
「違います」
間を置かず、否定されました。
「それは“都合のいい後退”です」
(……)
言葉が、刺さります。
的確に、無駄なく。
「あなたは」
レオンは続けます。
「ずっと支えてきた」
「常に先回りして」
「自分のことは後回しにして」
一つ一つ、積み上げるように。
「そして今」
ほんのわずかに、声が低くなりました。
「役目が終わったからと、離れる」
「それは……」
「逃げです」
静かな断言でした。
「……」
何も言い返せません。
なぜなら。
(否定できない)
「あなた自身の幸せは、どうするんですか」
その言葉に呼吸が、一瞬止まりました。
「……私の、幸せ?」
考えたことが、ありませんでした。
本当に、一度も。
お嬢様のために動くこと。
支えること。
守ること。
それが当たり前で、それが役目で。
(それで、十分だと)
思っていました。
⸻
「あなたは」
レオンが、ゆっくりと言います。
「どうしたいんですか」
——どうしたいか。
問いは、単純で。
けれど。
今まで、一度も向き合わなかったもの。
視線が、自然とバルコニーの方へ向きます。
そこには。
楽しそうに笑う、お嬢様の姿。
その隣にいる、アーヴィン様。
少し前まで。
必死で支えていた光景
でも今は。
自然に、そこにある。
(……それでも)
胸の奥で、何かが動きました。
(まだ、離れたくない)
その感情に、気づいた瞬間。
少しだけ、驚きました。
「……私は」
言葉にするのは、初めてでした。
「お嬢様のそばに、いたいです」
静かに、けれどはっきりと。
「役目ではなく」
「義務でもなく」
「——私が、そうしたいから」
言い切った瞬間、胸の奥がすっと軽くなりました。
レオンは、わずかに目を細めます。
「それでいい」
短い言葉。
けれど、はっきりと肯定されました。
「あなたは、ようやく」
「自分の意思で立っています」
(……そうですね)
初めてかもしれません。
本当に、私は一歩、前へ出ました。
離れるためではなく。
——戻るために。
「ナターシャ?」
お嬢様が、こちらに気づきました。
「はい」
私は、いつものように一礼します。
「今後もお仕えさせていただきます」
一瞬の沈黙。
そして。
「……ええ」
お嬢様が、嬉しそうに笑いました。
「よろしくね、ナターシャ」
「はい」
そのやり取りで私は、はっきりと理解しました。
(これは、義務ではありません)
(私の選択です)
そして。
その少し後ろで。
レオンが、静かに立っていました。
(……もう一つ)
まだ、向き合っていないものがあることを。
私は、きちんと理解していました。
——役目の終わりは。
終わりではなく。
新しい選択の、始まりでした。




