第18話 バルコニーは、逃げ場がなくて絶好の場所です
夜風が、やわらかくカーテンを揺らしていました。
舞踏会の喧騒から、ほんの少し離れた場所。
——王都の夜景を見渡せる、バルコニー。
「……綺麗ね」
お嬢様——マリアーナ様が、小さく呟きました。
街の灯りが、宝石のように広がっている。
静かで、穏やかで。
——逃げ場がないほどに、落ち着いた場所。
(完璧です)
私は一歩後ろで、静かに頷きました。
(環境、整いました)
(人払い済み)
(導線確保)
(障害物なし)
そして。
(最大の不確定要素——お嬢様)
ちらりと視線を向けます。
マリアーナ様は、両手を胸の前で軽く握りしめていました。
落ち着かない様子で、何度も視線を彷徨わせています。
(緊張していますね)
当然です。
今日は——
(決戦です)
「ナターシャ」
「はい」
「本当に……大丈夫かしら」
小さな声。
普段よりも、ずっと弱い声でした。
「大丈夫でございます」
私は即答します。
「どうして言い切れるのかしら?」
「準備が整っております」
「それ、私の中身は含まれているのかしら…」
「……努力次第でございます」
「不安が増えたわ」
(正直に申し上げました)
ですが。
私は一歩近づき、静かに言いました。
「お嬢様」
「うん?」
「失敗しても構いません」
マリアーナ様が、目を瞬かせます。
「転んでも、言葉が詰まっても」
「……」
「それでも、伝わるものはございます」
少しの沈黙。
そして。
「……ナターシャ」
「はい」
「あなた、そういうことを言うのね」
「現実的でございますので」
お嬢様は、ふっと笑いました。
少しだけ、肩の力が抜けたように見えます。
(良い傾向です)
「……頑張るわ」
小さく、けれどはっきりと。
その言葉を聞いて、私は一礼しました。
「では、“たまたま近くにいる侍女”になります」
「近すぎないでね」
「最適距離を維持いたします」
私はバルコニーの端へと下がります。
視界は確保、音も拾える。
しかし介入は最小限。
(準備完了)
——その時。
「マリアーナ嬢」
静かな声。
振り向けば。
アーヴィン様が、そこに立っていました。
(完璧なタイミング)
「少し、風に当たろうと思いまして」
「奇遇ですね、私もです」
(今回も誘導済みです)
二人の距離は、ほどよく近くて。
けれど、触れない距離。
夜風が、二人の間を通り抜けます。
(……いい)
「先日は、ありがとうございました」
アーヴィン様が穏やかに言いました。
「ダンス、とても楽しかったです」
「……私も」
お嬢様の声は、少しだけ震えていました。
ですが。
(逃げていません)
「その……」
来ました。
(ここです)
「今日も……」
お嬢様が言葉を探します。
「ええと……あの……」
(落ち着いてください)
「……綺麗ですね」
(景色の話になりました)
「ええ」
アーヴィン様が微笑みます。
「とても」
(戻してください)
「違うの、そうじゃなくて……!」
お嬢様、自分で修正しました。
(素晴らしい)
「私……その……」
言葉が絡まります。
視線が揺れて。
手が、ぎゅっと握られて。
(ここからです)
「ええと……あの……ええと……」
(頑張ってください)
「私……あなたと……その……」
沈黙。
夜の音だけが、静かに流れます。
「……楽しくて」
(方向は合っています)
「一緒にいると……」
声が、少しだけ弱くなって。
でも。
(止まりません)
「ええと……あの……」
そして。
ぎゅっと、目を閉じて。
「——好き、です……!」
空気が、止まりました。
「……ちゃんと、言えないけれど……!」
続いた言葉は、不格好で。
整っていなくて。
けれど。
「……好き、です」
——確かに、届くものでした。
(……)
私は、思わず息を止めていました。
完璧ではありません。
言葉も整っていません。
順序も、綺麗ではありません。
ですが。
(これで、十分です)
アーヴィン様は一歩だけ、近づきました。
その表情は、いつもと同じように穏やかで。
けれど、少しだけ…柔らかくて。
「……ありがとうございます」
静かな声。
その返答を聞いた瞬間。
私は、ゆっくりと息を吐きました。
(——成功です)
夜風が、少しだけ強く吹きました。
その中で、
二人の距離は、確かに変わっていました。




