第14話 湖畔は美しく、そして油断できません
「日帰りで、別荘へ行きましょう」
——そう提案したのは、侯爵夫人でした。
「湖が見える、とても静かな場所なのよ」
「まあ、素敵ですわ」
お嬢様が微笑みます。
(嫌な予感しかしません)
静か。自然。湖畔。
(足場が不安定)
(水辺)
(転倒=即危険)
「ナターシャ」
「はい」
「あなたも来なさい」
侯爵様が穏やかに言いました。
「マリアーナの世話が必要だろう」
「……かしこまりました」
(断れません)
⸻
——当日。
馬車に揺られ、王都を離れ。
やがて視界が開けます。
湖。
青空を映す水面。
風に揺れる木々。
「……綺麗ね」
お嬢様が、静かに呟きました。
(……ええ)
思わず同意します。
(これは、確かに)
(来る価値がありますね)
⸻
「ほらマリアーナ、足元に気をつけて」
侯爵夫人。
「大丈夫よ、お母様」
一歩。
小石で滑りました。
「大丈夫ではありません」
私は即座に支えました。
「今のは石が悪いわ」
「石は動いておりません」
今日も通常運転です。
⸻
——別荘。
木造の落ち着いた建物。
大きな窓から湖が見えます。
「いい場所だろう」
侯爵様が言いました。
「ええ、とても」
ダニエル様が頷きます。
(この二人、安定しています)
準備された昼食。
軽い料理と、温かい飲み物。
「ナターシャ、このカップ——」
お嬢様が手を伸ばします。
(来ます)
私は視線を固定しました。
指先が、カップの縁に。
ほんのわずかに触れる。
——押しているつもりはない。
ですが。
重心がずれている。
角度が悪い。
カタン。
揺れました。
私は即座に支えます。
「……今、触れましたね」
「ええ?」
お嬢様が首を傾げます。
「触れたかしら?」
「ごくわずかに」
指先を示します。
「縁を押しておられました」
「押していたつもりはないのだけれど……」
「無意識の力加減でございます」
私ははっきり言いました。
「軽いものほど、少しの力で動きますので」
「……そうなのね」
お嬢様は納得したように頷きました。
(現象の正体、確認完了)
——食事は、穏やかに進みました。
パンは一つ落とし。
果物は半分成功。
(上出来です)
会話も弾みます。
「王都の様子はどうだ?」
侯爵様。
「相変わらず賑やかですね」
ダニエル様。
「ええ、とても楽しいですわ。先日ナターシャと街へ……」
お嬢様は楽しそうにお父様に街への外出を報告しています。
(うん、事実です)
——そして。
「少し散歩でもどうかしら」
侯爵夫人が提案しました。
(来ました)
湖畔。
水辺に沿った小道。
ところどころに小石。
わずかな傾斜。
(危険地帯です)
「マリアーナ様、こちらへ」
私は半歩前へ出ます。
「はいはい、わかっているわ」
一歩。
二歩。
——三歩目でバランスを崩しました。
「わかっていません」
支えます。
「今のは風よ」
「今日も無風でございます」
⸻
ですが。
景色は、やはり美しくて。
水面がきらめき。
風が髪を揺らし。
「……気持ちいいわね」
お嬢様が、穏やかに言いました。
(……はい)
こういう時間は。
(悪くありません)
⸻
——その時でした。
「ナターシャ、見て」
お嬢様が、水面の方へ一歩近づきます。
(距離が近い)
「お嬢様、そこは——」
足元は、やや傾斜。
小石。
そして。
水際。
一歩。
——滑りました。
「きゃっ——」
体が、湖側へ傾きます。
(落ちます)
私は即座に踏み込みました。
腕を掴む。
ですが。
勢いが強い。
引かれる。
(間に合わない——)
その瞬間。
「ナターシャ!」
後ろから、支えが入りました。
ダニエル様です。
三人分の重心。
ぎりぎりで。
止まりました。
静止。
湖面が、すぐ下に見えます。
「……」
「……」
「……」
「……危なかったわね」
お嬢様が言いました。
「非常に危険でした」
私は答えました。
「危うく落ちるところだったな?」
ダニエル様がホッとしながらおっしゃいます。
「はい、本当にぎりぎりでございました」
「どうしてかしら」
「足場が悪いからでございます」
今回は、明確です。
ゆっくりと体勢を戻し。
安全な場所へ。
「……ありがとう」
お嬢様が、小さく言いました。
「当然でございます」
そう答えながら。
(……今のは)
ほんの少しだけ。
(心臓に悪いですね)
⸻
「ナターシャ」
ダニエル様が言いました。
「よくやった」
「いえ、支えていただいたのはこちらです」
「連携だな」
短く、そう言いました。
(ええ)
その通りです。
——その後。
散歩は“慎重に”続きました。
転びかけ三回。
(すべて阻止)
別荘へ戻る頃には。
夕方の光が、湖を染めていました。
「……楽しかったわ」
お嬢様が、ふわりと笑います。
(……ええ)
危険はありました。
ですが。
(それでも)
この時間は。
「楽しい一日でございました」
私は、そう答えました。
——湖畔の別荘。
そこは。
美しく。
そして。
やはり——
(油断できない場所でした)




