第13話 正常な人間は長くは持ちません
——その日、ラファーム侯爵家に“普通”がやってきました。
「久しぶりだな、マリアーナ」
「お兄様!」
玄関ホールに響く、穏やかな声。
そこに立っていたのは——
ラファーム侯爵家長男、ダニエル様。
落ち着いた立ち居振る舞い。
無駄のない所作。
そして何より。
(転びません)
——非常に貴重な人材です。
「ナターシャ、こちらが兄よ」
「存じております」
「初めまして。妹が世話になっている」
「専属侍女のナターシャでございます」
丁寧な挨拶。
視線もまっすぐ。
(正常です)
ここまで完璧です。
⸻
「そしてこちらが友人のマイクだ」
「どうも」
軽く手を上げる青年。
少し砕けた雰囲気ですが——
目が、よく見ています。
(観察型ですね)
⸻
「王都は久しぶりでね」
ダニエル様が言います。
「妹の様子も気になっていた」
(……ええ)
それは。
(気になりますよね)
「マリアーナ、最近はどうだ?」
「ええ、とても順調よ」
その一歩で。
つまずきました。
「……」
沈黙。
ダニエル様が、ゆっくりと瞬きをします。
「……今のは」
「気のせいよ」
「いや、転びかけたように見えたが」
「気のせいよ」
押し切りました。
(無理があります)
「……なるほど」
ダニエル様が小さく頷きました。
理解したようです。
すべてを。
⸻
「ナターシャ」
「はい」
「苦労しているだろう」
「いえ、現実的なだけでございます」
ダニエル様は、一瞬だけ笑いました。
(この人、いい人です)
——その後。
応接室へ移動。
お茶の準備。
配置。
動線。
(通常業務です)
⸻
「……ふむ」
マイク様が、ぽつりと呟きました。
「どうかしたか?」
ダニエル様が問いかけます。
「いや」
マイク様は視線を巡らせながら。
「妙に緊張感のある配置だなと思って」
(正解です)
「何か起きる前提で動いている」
「ええ」
私は頷きました。
「起きますので」
「なるほど」
納得されました。
早いです。
⸻
その時。
「ナターシャ、このカップ——」
お嬢様が手を伸ばし。
触れる前に。
倒れました。
「……」
「……」
「……」
三人の視線が集まります。
「不思議ね」
「不思議ではありません」
即答しました。
私はカップを戻し。
何事もなかったように整えます。
(通常対応)
「……今のは」
ダニエル様が、静かに言いました。
「触れていなかったように見えたが」
「ええ」
私は頷きました。
「触れておりません」
「なぜ倒れた?」
「それが問題でございます」
マイク様が、小さく吹き出しました。
「面白いな」
(楽しんでいますね)
——その後も。
会話は続きます。
ですが。
途中で花瓶が揺れ。
絨毯でつまずき。
お茶が少しこぼれ。
そのすべてに。
私は対応し。
ダニエル様は。
「……なるほど」
と、理解を深めていきました。
「これは……」
ぽつりと。
「環境の問題ではないな」
「個体差でございます」
私は答えました。
「そうか……」
遠い目をされました。
(順応が早い)
そして。
決定的な瞬間が訪れます。
「マリアーナ」
「なあに、お兄様」
「少し歩いてみてくれ」
「ええ」
一歩。
二歩。
三歩。
——四歩目。
つまずきました。
「……」
ダニエル様が、目を閉じました。
そして。
「ナターシャ」
「はい」
「任せた」
「かしこまりました」
——理解完了です。
「早いな」
マイク様が笑います。
「適応が」
「無駄な抵抗はしない主義でね」
ダニエル様。
(合理的です)
——そして。
問題は、最後に起きました。
「……」
マイク様が、棚の上の置物を眺めています。
「綺麗だな」
手を伸ばし。
少しだけ持ち上げて——
戻そうとして。
角度を誤りました。
カタン。
ぐらり。
(落ちます)
私は動き——
その前に。
ダニエル様が支えました。
「……」
静寂。
「……すまない」
マイク様が言いました。
「少し滑った」
私は。
一拍置いて。
「……よくあります」
そう言いました。
「いや、ないだろう?」
マイク様が即座に返します。
ですが。
ダニエル様は。
「……あるな」
頷きました。
「環境がそうさせる」
静かな断言。
(違います)
(半分くらいは違います)
マイク様は、しばらく黙ってから。
「……なるほど」
と、呟きました。
そして。
少しだけ笑って。
「これは確かに、油断すると持っていかれるな」
(ええ)
(持っていかれます)
——その日。
“普通”は。
完全ではありませんでした。
ですが。
最後まで、立っていました。
(……強いですね)
私は思いました。
ラファーム侯爵家長男。
ダニエル様。
そして。
(少しだけ染まりましたね)
マイク様。
——この屋敷は。
やはり。
誰であっても。
無傷では済まない場所のようです。




