第10話 守られる側は慣れていません
——それは、ほんの一瞬の出来事でした。
午後の廊下。
来客対応のため、屋敷の中はいつもより人の出入りが多く。
(嫌な予感がします)
私はそう思っていました。
理由は単純です。
「ナターシャ」
「はい」
「今日の私は安定しているわ」
「はい、先ほどまでは」
マリアーナお嬢様が、優雅に歩きながら言いました。
……三歩までは完璧でした。
「四歩目が問題です」
「今、三歩目よ?」
「ええ、ですので——」
その時です。
廊下の角。
使用人が、大きな荷物を抱えて出てきました。
(死角)
回避が遅れます。
私も、お嬢様も。
そして。
——ぶつかります。
「きゃっ——」
お嬢様の体が、大きく傾きました。
完全に崩れています。
(間に合わない)
そう判断した瞬間。
私は、踏み込みました。
自分が代わりに受ければいい。
そうすれば——
衝撃は、一人分で済みます。
ですが。
「——下がってください」
低い声。
その瞬間。
腕を引かれました。
(え)
視界が、ずれます。
代わりに前へ出たのは——
レオンでした。
ドン。
鈍い衝撃音。
荷物が崩れ。
箱が落ち。
中身が床に散らばります。
「……っ」
私は、一歩遅れて止まりました。
目の前で。
レオンが、すべてを受けていました。
「お嬢様!」
反射で振り返ります。
マリアーナ様は——
無事でした。
倒れていません。
怪我もない。
(守れた)
——違います。
(守られた)
「申し訳ございません!」
荷物を持っていた使用人が青ざめています。
「問題ありません」
レオンが即答しました。
いつも通りの声で。
「怪我はありません」
そう言って、荷物を拾い上げます。
動きに無駄はありません。
ですが。
(……)
袖が、ほんの少しだけ擦れています。
衝撃は確実にあったはずです。
「……レオン様」
声が、少しだけ遅れました。
「本当に問題ありません」
振り返りもせずに、言います。
「優先順位通りの処理です」
(……またそれですか)
「ナターシャ……」
お嬢様が、少し震えた声で呼びました。
「大丈夫でございます」
私はすぐに答えます。
「お嬢様にお怪我はございません」
「そうじゃなくて……」
一瞬、言葉に詰まり。
「……ありがとう」
そう言いました。
(違います)
私は、何もしていません。
「礼は不要です」
レオンが、荷物を持ち直しながら言いました。
「事故は防ぐべきものですので」
それだけ言って。
まるで何事もなかったかのように、歩き出します。
(……)
私は、動けませんでした。
——いつもなら。
私が、前に出ていました。
私が、受けていました。
私が、処理していました。
それが当たり前で。
それしかなくて。
(……取られました)
その役割を。
「ナターシャ?」
お嬢様の声で、我に返ります。
「はい」
「ぼーっとしているわ」
「失礼いたしました」
私はすぐに動き出しました。
いつも通りに。
問題なく。
——の、はずでした。
ですが。
少しだけ。
距離の取り方が、分からなくなっていました。
廊下の先。
レオンが立ち止まります。
「……ナターシャ」
名前を呼ばれました。
「はい」
近づきます。
「先ほどの行動ですが」
「はい」
「非効率です」
(やっぱりそれですか)
「自分で受けに行く必要はありません」
淡々と。
「役割が重複しています」
「……」
「分担すべきです」
正論です。
ええ、正論ですとも。
「……」
ですが。
「それでは」
私は言いました。
「間に合わない場合がございます」
レオンが、こちらを見ます。
まっすぐに。
「その場合は」
一拍。
「私が行きます」
断言でした。
(……この人は)
「なぜですか」
気づけば、聞いていました。
「そこまで」
少しだけ。間が空いて。
レオンは、視線を逸らさずに。
「あなたが行く必要がないからです」
そう言いました。
それは。
今まで、一度も言われたことのない言葉でした。
(必要が、ない?)
私はずっと。
必要だから、動いてきました。
いなければならないから、支えてきました。
それなのに。
「……」
言葉が、出ません。
「一人で処理しなくていい」
レオンは続けます。
「分担すればいいだけです」
簡単に言います。
ですが。
(そんな簡単なことでは)
——ないはずなのに。
「……」
胸の奥が、少しだけ。
静かになりました。
「ナターシャー!」
遠くから声。
「はい!」
振り向くと。
「今度は本当に転んだわ!」
「それは存じております!!」
私は駆け出しました。
いつも通り。
——ですが。
その一歩は。
ほんの少しだけ気持ちが軽くなりました。
背後で
「……」
レオンが、静かにそれを見ていました。
そして小さく。
「……それでいい」
誰にも聞こえない声で、そう呟きました。
(……困りましたね)
私は、お嬢様を起こしながら思います。
(この人)
(守ってきます)
そして。
(少しだけ)
(安心してしまいます)
——それは。
侍女としては、あまり良くない変化でした。
ですが人としては。
きっと悪くないものなのでしょう。




