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第9話 止められるのは想定外です

——それは、些細な違和感から始まりました。


(……遅い)

自分の反応が、ほんのわずかに。

ですが確実に。

「ナターシャ?」


「問題ございません」

いつも通り。

——のはずでした。


午前の業務。

問題なし。


昼の準備。

問題なし。


お嬢様の転倒未遂。

——三回。


(多いですね)

ですが全て防いでいます。

完璧です。

ええ、完璧ですとも。


(……少し、視界が狭いだけで)

気にするほどではありません。

この程度よくあることです。


「ナターシャ」


「はい」


「本当に大丈夫?」


「はい」

——反射的に答えました。


その時です。

「嘘ですね」

後ろから、静かな声。


「……レオン様」

振り向かなくても分かります。


「顔色、動作、視線」

淡々といいます。


「すべて落ちています」

(見ないでください)

そう言いたくなるのを、飲み込みました。


「業務に支障は出ておりません」


「出ます。もう時間の問題です」


「問題ありません」


「あります」

会話が、噛み合いません。


いえ。

(噛み合いすぎています)

だからこそ、逃げ場がない。


「ナターシャ」

お嬢様が不安そうにこちらを見ます。


(いけません)

この顔は見せてはいけません。


「少々、失礼いたします」

私は一礼し、その場を離れました。


廊下。人気のない場所。


(……大丈夫)

一度、深く息を吐きます。


(回復します)


いつもそうしてきました。

今回も同じです。


一歩、踏み出して——

ぐらり。


(……あれ?)


足が。

思った位置に、ありませんでした。


そのまま、崩れかけて——

止まりました。


「——だから言ったはずです」

支えられていました。


腕を。

しっかりと、確実に。


「……レオン様」


「立てますか」

声はいつも通り。

ですが。

掴む力が、少し強い。


「問題ございません」


「あります」

また、即答でした。


「離してください」


「離しません」


「歩けます」


「歩かせません」

——一歩も引かない。

(……何ですかこの人)


初めてでした。

ここまで強く止められるのは。

「……業務があります」


「優先順位が違います」


「違いません」


「違います」

視線がぶつかりました。

真っ直ぐで。

逃げ場のない目。


「あなたは」

レオンが言います。


「“倒れるまでやる”人間です」

言い切られました。


(……否定できません)


「だから止めています」

その言葉は責めるものではなく。

ただ、当然の処理のように。


「……放っておいてください」

少しだけ声が硬くなりました。


その瞬間。

「無理です」

——迷いがありません。


「理由を述べます」


「結構です」


「述べます」

止まりませんでした。


「あなたが倒れると」


「……」


「被害が拡大します」


「……それは」


「ラファーム侯爵家だけではなく」


一瞬だけ。

言葉が、区切られて。

「……周囲にも」


(……今)


ほんの少しだけ。

“個人”が混ざりました。


「ですので」

レオンは続けます。

「止めます」


それだけでした。


(……ずるいですね)

そう思いました。


正論で合理で。

逃げ道を全部塞いで。


それなのに。

(少しだけ、優しい)


「……少しだけ」

私は言いました。

「少しだけ、休みます」


それが。

精一杯の譲歩でした。


「十分です」

レオンは頷きました。


そして。

「座ってください」

近くのベンチへ誘導されます。


無駄のない動き。

ですが今回は逆らいませんでした。


腰を下ろすと。

視界が、少し安定しました。


(……本当に、少し無理をしていたようですね)


「水を」

差し出されます。


「ありがとうございます」

受け取って、一口。


——静かです。

誰もいない廊下。

風の音だけ。

「……」


「……」

沈黙、ですが…。

(不思議と、落ち着きます)

「レオン様」


「はい」


「なぜ、そこまで」

言いかけて。

少し迷いました。


ですが。

「止めるのですか」

最後まで言いました。


レオンは、少しだけ考えて。

「……効率が悪いからです」

そう答えました。


(嘘ですね)

一瞬で分かりました。


ですが。

「そうですか」

私はそれ以上、踏み込みませんでした。


しばらくして。


「……もう大丈夫です」

立ち上がります。


今度は。

ちゃんと、立てました。


「戻ります」


歩き出して。

一歩。

二歩。

——問題なし。


「ナターシャ」

後ろから声。


「はい」


振り返ると。

レオンが、こちらを見ていました。


いつもと同じ、無表情。

ですが。


「……一人で抱えすぎです」

その一言だけ。


私は、少しだけ目を細めました。

「職務でございますので」

そう返しました。


「……そうですか」

それ以上は、言いませんでした。


ですが。

その沈黙が。

少しだけ、引っかかりました。


(……困りましたね)

私は歩きながら思います。


(この人)

(止めてきます)


そして。

(少しだけ)

(安心してしまいました)


——それは。

今までの自分には、なかった感覚でした。


部屋へ戻ると。

「ナターシャ!」


「はい」


「ケーキが落ちたわ!」


「なぜ目を離した瞬間に!?」


現実は。

やはり通常運転でした。


ですが。

ほんの少しだけ。

足取りは軽くなっていました。

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