新生活の「分離不安」、あるいは置き去りにされた心
新生活の「分離不安」、あるいは置き去りにされた心
### 1. 荒らされたリビングの惨劇
五月の中旬。連休が明け、日常の歯車が再び回り出した頃、トイ・プードルの「レオ」君と飼い主の松田さんが診察室へやってきました。
「先生、もうお手上げなんです。レオが、私が仕事に行っている間にケージを噛み壊して、リビングのソファをボロボロにしてしまって。帰宅すると、玄関で失禁していることもあって……。以前はこんなことなかったのに」
松田さんは、四月から就職し、在宅時間が大幅に減ったといいます。レオ君は僕の足元で、不安げに松田さんの顔を見上げていました。
### 2. 「寂しい」が病気になる時
「松田さん、これはわがままやいたずらではなく、**『分離不安症』**という心の病気かもしれません」
犬は社会的な動物であり、群れのリーダー(飼い主)との絆を何より大切にします。
* **急激な環境変化:** 春からの就職や進学で、ずっと一緒だった人が急にいなくなる。このギャップに心がついていけません。
* **パニック状態:** 飼い主が家を出た直後、心拍数が上がり、過呼吸やパニックに陥ります。出口を探してドアを掘ったり、気を紛らわせようとして物を壊したりしてしまうのです。
* **負のループ:** 帰宅した飼い主が惨状を見て叱ると、犬は「孤独の恐怖」に「叱られる恐怖」が加わり、さらに不安が強まります。
### 3. 心の距離を整える「自立」のステップ
「レオ君に必要なのは、怒ることではなく、『一人は怖くない』という自信をつけさせることです」
1. **「お出かけの合図」を消す:** 鍵を持つ音、コートを着る動作。これらが犬の不安を煽ります。あえて「コートを着てテレビを見る」など、動作と外出を切り離す訓練をしましょう。
2. **知育玩具の活用:** 出かける直前に、中に大好物のフードが入ったおもちゃ(コングなど)を渡します。飼い主がいない間だけ手に入る「特別な楽しみ」を作ります。
3. **静かな「さよなら」と「ただいま」:** 出る時と帰った時は、あえて淡々と接してください。再会を過剰に喜ぶと、不在時の孤独がより際立ってしまいます。
### 4. 医療という「心の杖」
「先生、トレーニングだけで治りますか?」と不安そうな松田さんに、僕は優しく伝えました。
「重度の場合は、脳内のセロトニン(幸福感を感じる物質)を調整するお薬を併用することもあります。お薬は『眠らせるもの』ではなく、心をフラットにして、トレーニングを受け入れやすくするための『心の杖』なんです」
### 5. 重なり合う時間
「先生、お疲れ様です。……新生活って、人間だけじゃなく動物にとっても大きな変化なんですよね」
河野が、レオ君に「またね」と声をかけながら言った。
「そうだね。僕たちが新しい環境に慣れようと必死な時、彼らはただじっと、変わらない愛を信じて待っているんだ。その健気さに、僕たちも応えてあげなきゃいけないよね」
二週間後、松田さんから「少しずつですが、レオが一人で寝て待てるようになりました」と連絡がありました。
窓の外では、初夏の風が五月の木々を揺らしています。
レオ君の心が、松田さんの帰りを穏やかに待てるようになるまで、僕たちはじっくりと並走し続けます。
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