初夏の熱中症・第一号、あるいは無言のSOS
### 1. 静寂を切り裂く悲鳴
六月の終わり、京都特有の「蒸し暑さ」が始まった日の午後でした。
診察終了間際、一台の車が急ブレーキの音とともに駐車場へ滑り込んできました。
「先生! 助けてください! 大五郎が、大五郎が動かないんです!」
飛び出してきたのは、常連のゴールデンレトリバー、大五郎君の飼い主さん。抱えられた巨体はぐったりとして、口からは大量のよだれが垂れ、舌は紫色に変色していました。
「すぐに処置室へ! 河野、大型犬用の冷却バスを用意! 酸素供給開始、直腸温を測って!」
### 2. 「まだ六月」という罠
運び込まれた大五郎君の体温計が示した数値は ****。
犬の平熱は約 台ですから、これは脳や内臓のタンパク質が固まり始める、極めて危険な「沸騰状態」です。
「お母さん、何があったんですか?」
「買い物に行く間、十五分だけ車でお留守番させたんです。窓は少し開けていたし、まだ六月だから大丈夫だと思って……。戻ったら、あんなに元気だった子が泡を吹いて倒れていて」
「……窓を少し開けたくらいでは、車内の温度上昇は防げません。特に湿度の高い日は、犬はパンティング(喘ぎ)による気化熱で体温を下げることができず、一瞬でオーバーヒートしてしまうんです」
### 3. 命を繋ぐ「気化熱」の戦い
処置室では、壮絶な救命作業が続いていました。
「保冷剤を脇の下と股の付け根に! でも、冷やしすぎによる血管収縮にも注意しろ。全身に水をかけて、扇風機で風を送るんだ!」
熱中症の処置で最も大切なのは、ただ冷やすことではなく、**「血液を冷やして循環させる」**ことです。
「先生、心拍数が落ちてきました! 反応があります!」
河野の声に、一瞬だけ希望が宿りました。大五郎君の瞳がわずかに焦点を結び、僕の手を弱々しく舐めようとしたのです。
### 4. 救急車代わりの車内でできること
「お母さん、あそこでパニックにならずにすぐ連れてきてくれたのは正解でした。でも、もし次に同じような場面に遭遇したら(もちろん二度とあってほしくないですが)、病院へ向かう車内で『濡れたタオルをかけて窓を全開にする』か『エアコンの冷風を直接当てる』のを忘れないでください。それが、病院に辿り着くまでの『命の橋』になります」
大五郎君は、数日間の集中治療の末、奇跡的に後遺症もなく退院することができました。
去り際、飼い主さんは空になったリードを握りしめ、「もう二度と、一人で待たせたりしません」と涙ながらに誓ってくれました。
### 5. 夏への宣戦布告
「先生、お疲れ様です。……熱中症って、本当に一瞬の判断ミスで起きるんですね」
佐藤さんが、びしょ濡れになった処置室の床を拭きながら言った。
「ああ。僕たちがどんなに呼びかけても、この『第一号』のニュースは毎年絶えない。でも、そのたびに僕たちは全力で冷やすしかないんだ」
窓の外では、さらに勢いを増した夕立が、アスファルトの熱を奪っていました。
いよいよ、本当の夏がやってきます。
「さて、次は……七夕の夜の異変。笹の葉に飾った『短冊の紐』を飲み込んでしまった猫ちゃん。レントゲンに映らない透明な凶器との戦いだ」
僕は、再び気を引き締め、内視鏡の動作チェックを始めました。
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