100.それから
今回で最終回です。
こうして年月が経つうちに、左大臣家の人々には色々な喜びごとがありました。筑紫へと下った大弐の帥は無事に大宰府に到着し、左大臣にとてもたくさんの贈物を差し上げました。
左大臣の太郎君は十四歳で元服なされ、大君の姫君は十三歳で裳着の御式を行いました。すると太政大臣が二郎君にも負けさせまいとばかりに元服させなさるので、父親である左大臣は、
「こうも競うようなことをなさって」と言って笑っています。
来年には大君の姫君を帝に御入内させようと、この上なくかしづき、大切に御養育なさるうちにあっけなく年も明けてしまいます。
左大臣は二月に大君を御入内させなさいました。その時の車や人の数、作法の様子などの素晴らしさは御想像にお任せしましょう。大君はこの上なくおかわいらしい方なので、帝の御寵愛を大変に受け、ときめかれていらっしゃいます。叔母の后の宮にも大切にしていただくので、先に御入内なさっている方々よりも、こよなく華やかにときめかれていらっしゃいました。
故大納言殿の息子の播磨守は弁官になられ、都に戻ってきました。あの衛門の夫、三河守は左少弁となり、やはり都に戻りました。衛門は弁の北の方となったので、沢山の子を産み、大変威厳のある様子で、三条の邸に参るようになりました。
そうするうちに太政大臣が体調を崩されて、大臣の職を帝にお返しになろうとしました。けれど帝はまだ太政大臣を用いたいとおっしゃってお許しになりません。太政大臣は、
「私は大変ひどく年老いてしまったのですが、朝廷におられる帝のお姿を見る事ができなくなる悲しさに、これまで出仕して参っておりました。けれど今年は慎むべき年にあたり、しかも今月は大厄の月にもあたりますので、慎み、籠りたいと思うのです。私の一族が朝廷の政から離れる事は大変不都合なことでしょう。ですから私が職を辞する代わりに、左大臣を新しい太政大臣になさってはいかがでしょう。学才などもそう悪くは無いと思われます。ですからこの翁よりもしっかりと、帝の御政務をお助けできる事と思います」
と言い、后の宮からも強くお願いしていただいたので、帝も、
「そういうことならば。太政大臣殿が生きていて下さる事が、嬉しいのだから」
とおっしゃり、左大臣を太政大臣に任命なさいます。世間の人々は、
「左大臣殿はまだ四十歳にもならないのに、もう、太政大臣にまで位を極めなさった」
と驚いて噂しました。
そして新太政大臣の大君の女御は、帝の后(中宮)になられました。中宮の御世話の責任者である中宮亮には、故大納言の三郎君の少将を、中将に昇進させて任命しました。
太政大臣の息子達、兵衛佐達も揃って昇進します。太郎君の兵衛佐は左近衛少将になられました。それを知った前の太政大臣が、
「私の所の兵衛佐は、昇進を遅らせられるのか」と不服を言います。
「とても無理なことをおっしゃいますね。他の人を押しのけて、我が子ばかりを太政大臣になった早々に、昇進させるわけにはいきません」と申し上げるのですが、
「この子はお前の子ではない。この翁の五郎君、私の五番目の息子なのだ。だから人にそしられるようなことは無いはずだ。先にあなたの太郎君が左近少将になったのだから、今度はこの五郎君を右近少将にするべきだ。五郎君は私の子なのだから、お前の太郎君の叔父にあたる。叔父が甥の職より低いなどと言う事があってはならない」
と言い返し、とうとう、
「よおし。どうせ口だけでその気がないと思っているのなら」
と、直接帝に切にお願いなさり、右近少将にしてしまわれました。そして満足そうに、
「これでこそ良い。この子がもっと早く生まれていたならば、私はこの子に自分の一位の位、太政大臣の官位を譲ってやれたのに」
とまでおっしゃいます。可愛がるという言葉では足りないほどの可愛がりようです。
太政大臣の北の方のお幸せについては、
「喜ばしい事と言うのも古めかしく聞こえますね。落窪の間に住まわれ、単衣の衣を身に付けていた頃は、こんな風に太政大臣の北の方になられて、后の母上になられる方には見えませんでしたから」
と、今でもこの方の昔のことを知っている人々は、こんな表に出せない内輪話をコソコソと噂したりしていました。
太政大臣は故大納言の三の君を中宮の御匣殿にして差し上げました。太宰帥も任期を終えて平穏無事に四の君が都に戻ってきたので、故大納言の北の方は嬉しく思いました。もっともなことでしょう。
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左大臣の太郎君(長男)二郎君(二男)は無事に元服をしました。大君(長女)の姫君も成人のための裳着の式を済ませたようです。左大臣と北の方も我が子の成人を見届ける年代になっていたんですね。左大臣のお父さんも相変わらず自分の育てた孫に甘いようです。
なんと、左大臣は娘の大君をすでに先に入内さている女御たちのひしめく、今帝のもとに入内させました。いくら可愛らしいとはいえ、幼さも抜けないであろう姫君を厳しい所にお入れしたと思ったら、そこはやはり時の権力者。作者は想像するようにと言っていますが、しっかり女御様として他の方に劣らぬように立派な御支度で入内なさったようです。
何より左大臣は帝の叔父にあたりますし、時の人として頂点を極めています。そんな後見人が後ろ盾していては、幼げな女御様とはいえ、誰も逆らう事など出来る筈がありません。しかも後宮に君臨する帝の母上である后の宮は、この女御の叔母にあたります。この方が守られている以上、女御の立場は万全なのです。おかげで先に入内した帝とお歳もつり合っていて、これまで睦まれていた方々よりも、この女御は御寵愛を受けて時めいているというのです。
それにあの女君が御育てした姫なら、そう、性格に問題があるとも思えませんしね。左大臣も自信があっての事だったんでしょう。
そして「あこぎ」の夫「帯刀」も都に戻ってきました。今度は左少弁として官職につきます。位は正五位下。無位の地下人と言われていた彼も、地方の国司を勤めあげて、ここまで上ってきました。「あこぎ」も出世した夫の北の方としてみられるようになり、しかも子宝にも次々恵まれたようです。夫人としての重みを増して、三条の邸に参っていると言うのですから、「帯刀」も都に自分の邸を持つようになっているのでしょう。「あこぎ」はそこから三条の邸に通っているようですね。普通は邸の中に部屋を割り当てられて、そこで暮らしながらお仕えしますから、自分の出世した夫のもとから通う「あこぎ」は特別な計らいがもらえる立場のようです。「あこぎ」に威厳がついた事は語られていますが、左少弁になった「帯刀」にあまり触れられていないのは、ちょっと気の毒ですが。
とうとう左大臣は父親の後を継ぐかのように、太政大臣に上り詰めました。太政大臣の位は一位。この世でたった一人しかなる事が出来ない、神と同等とされる帝以外の立場ではこの世で最高の身分です。これで彼は名実ともに位人臣を極めた事になります。現実にはこのように同じ帝のもとで、親子で左大臣と太政大臣になった例はありませんし、太政大臣の職が子に受け継がれた事も無いそうです。太政大臣の最も若い例は藤原兼家が四十六歳で就任しています。だんだん出世の仕方が大袈裟になっていますが、この辺は架空の話として許容範囲だったのでしょう。この一族は世にあり得ないほどの栄華を誇ったと言う表現として受け止めたんだと思います。
その後、ついには太政大臣の大君の女御は、帝の后となりました。それを機に故大納言の三郎君は中将に昇進され、中宮亮の官を与えられました。これは帝の后にかかわることのすべての責任を任される、大変な高官です。そして太政大臣の太郎君も昇進させると、父の前の太政大臣が黙ってはいませんでした。太郎君に後れを取らせるなと、二郎君も昇進させるようにと迫ります。太政大臣はいくらなんでもそこまではやりにくいと躊躇しますが、孫可愛さからこの子はお前の子ではない。『翁の五郎君』だから太郎君の叔父になる。叔父が甥より低い立場にいるのはおかしいと強引な理屈をつけて、直接帝に直談判をしてしまいます。そして困ったことに、それがすんなりと通用してしまうのです。
まさに世の中はこの一族の思うがままになっているのでした。
いまだに女君の過去を持ち出して、こんな立場の方になるとは思わなかったと噂する人もいますが、それも、あまりの女君の出世ぶりに、羨んでの事のようです。それも表立っては口にできず、コソコソと噂話をする程度の様子。帝の后の母となられた女君に、失礼なことなど言えないのでしょう。
そして太政大臣は故大納言の三の君を、その后(中宮)の装束の調達をするところの長官の職に付けました。当時、衣と言うのは邪気を払う神聖なものと信じられていましたから、国の神事を取りはからう帝の后の儀式にお召しになる装束を取り扱うこの職の長官は、大変立場の高い職です。三の君は気が強く、夫を立てたりするよりも自分の意見をはっきり口にしたい人なので、再婚よりもこういう道の方がこの人には良いだろうと判断したのかもしれません。
そして北の方と涙の別れをした四の君も、帥の任期が明けて、旅も無事に終え、都へと帰ってきました。北の方は願いどおりに自分の命のあるうちに、四の君との再会を果たす事が出来たのです。どれほど喜んだことでしょう。
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太政大臣の北の方がこんな風に栄えられる姿を良く見るようにと、神仏も思われたのでしょう。故大納言の北の方は、突然亡くなるような事もなく、七十歳を超えるまで生きていらっしゃいました。
太政大臣の北の方は、
「母上は随分とお歳を召してしまいました。来世のための功徳を積むことを考えたいと思います」
とおっしゃって、母上をたいへん御立派に尼にして差し上げました。母北の方は大変に喜びの言葉をおっしゃって、いらっしゃられます。
「世に生きる人は、継子を恨んではいけない。継子ほどありがたいものは無いのだから」
とおっしゃる時もあれば、
「まだ魚が食べたかったのに、私を尼にしてしまったよ。自分が産んだ子ではないと、意地が悪いものだ」などと甘えて文句をおっしゃったりしたと言います。
そして、その母北の方が亡くなられた後も、その葬儀や御法要はただ、太政大臣が大変荘厳に催されました。
衛門は中宮の掌侍になりました。
この後の事は、次々の巻に出て来ることでしょう。
少将になられていた太政大臣の太郎君と次郎君は、ともに昇進を果たされました。二郎君を可愛がっていた祖父の前の太政大臣はすでに亡くなられていましたが、
「私の心を思ってくれるなら、二郎君の昇進を太郎君に遅らせないように」
と、返す返すおっしゃっていたので、わずらわしくはあっても気を使わずにはいられませんでした。この弟の君を心にかけて、御兄弟共に、左大将、右大将に昇進されました。
このお二人の母である太政大臣の北の方のお幸せと言ったら、言葉に表さずともお幸せそうなことだと誰からも見られていました。
太宰帥はこの太政大臣のお心づかいで、大納言になられました。
面白の駒は重い病気にかかってしまったので、法師になってしまったために、噂にも聞く事がありません。
あの典薬助はあの祭りの日に蹴られた事が原因で、病にかかって死んでしまったそうです。
「典薬助が我が妻がこんなに幸せにしている姿を見る事もなく死んでしまったとは、悔しい事だ。どうしてあの時、あれほどひどく蹴らせたのだろう。もうしばらく生きさせておいて良かったものを」
典薬助が死んだ事を聞いた太政大臣は、そう言葉を漏らしていらっしゃいました。
太政大臣のの女御の家司には、昔助けを受けたお礼に、和泉守がなられました。
太政大臣と北の方のお幸せのために尽くし続けた昔の「あこぎ」は、近いうちに典侍になりそうです。
風の噂では、典薬助は本当はまだ、二百歳になって生きているとか。
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北の方、最後まで北の方らしい姿を通しましたね。心の底から感謝をしていても、時として女君を困らせずにはいられない。これがこの人なりの甘え方で、この人にとって女君はすでに甘えられる存在にまでなっていたんですね。そんな北の方の姿を、女君はどんな思いで見ていたのでしょう? 作者はそこを語ってはくれませんが、一時はたった一人、この世で憎いとまで思った事のある人を、こうして大切に思い続けて甘えてもらえるようにまでなった。そこに去来したのは喜びでしょうか? 満足感でしょうか? それとも安堵した思いなのでしょうか?
何にしても、何か充実感のようなものは、味わったことでしょう。おそらく人生の中でこれほど本音でぶつかってきた人はいなかったでしょうし、そういう人はもう二度と現れる事は無いでしょうから。
ここでこの先の事は、新たな巻に出て来ると書かれていますが、これはお話の最後にこう書く事が当時の決まりごとだったようです。実際にはこういう言葉が出て来ると、このお話は終わるのだなと言う、お知らせになったんですね。
今だったら最終回に主人公が「またどこかで会いましょう」と言うのと同じ感覚でしょう。
そして北の方が亡くなられた後も、時はゆるゆると流れて行きました。息子たちも昇進したのですが、彼らの祖父にあたる前の太政大臣の遺言を結局は守るような形で、二人の息子は同じように昇進していきました。父親も甘い祖父ではありましたが、太政大臣自身も結構甘い父親となったようです。自分の思うようになる世の中なので、余計に甘くなってしまうのでしょう。
もともと殿上人だった太宰帥は、都に戻って大納言になりました。故大納言があれほど熱望して、人生の締めくくりに手に入れた職を、この人は遠い地での役目を無事に終えた後に手に入れました。四の君との仲の事に触れられてはいませんが、何も書かれていないと言う事はつつがなく、平和に家族として皆、暮らしているのでしょう。
その四の君の元の夫だった面白の駒も、今は法師となって世間に出る事は無いようです。でもこの人はもとから人に笑われることに苦痛を感じていたのですから、むしろ法師となった方が心は穏やかなのかもしれませんね。
以前、先のこの結末をお伝えした典薬助の結末。若気の至りと太政大臣も思っているのでしょうか? あそこまでやる事は無かったと、後悔の思いもあるようです。
決して自分の妻にされた事が許せるわけではなかったのでしょうが、それでも単純で憐れな老人にした事としては、自分の心の未熟さを感じて思う所があるのでしょう。
それだけこの人も、もう落ち着いた立場になったと言う事なのでしょうね。
太政大臣と北の方の結婚の時に、「あこぎ」を通してお世話になった和泉守の妻ですが、そのお礼として和泉守は女御の家司となってもらいました。女御の御前に仕えてもらい、これからは一族同様にお世話をしようと言う事なのでしょう。
あこぎが近々なれそうだと言う「典侍」と言う職は、宮中の内侍司の次官で宮中に勤める女房の中で、一番の地位だそうです。宮中で中宮に仕える事自体が名誉で、さらに責任ある官職は尊敬される立場なのですが、「典侍」はその最高の地位。当時はこの職に着くのが、女性たちの憧れだったそうです。いわば、人に仕える女性として頂点に立つわけですね。やりての「あこぎ」なら十分にその職も勤めあげる事が出来ることでしょう。
そして、典薬助は実は生きていて、二百歳にもなっていると言う噂もある。と、あの典薬助にやや同情的な言葉を添えて、このお話は終わります。
全四巻。結構長いお話でしたね。
このお話は前半の少将による落窪姫救済のロマンチックで情熱的な、シンデレラストーリーが語られる事が多いようです。姫が救出されるまでは、まるで本当に「あこぎ」のような少女が作者にこんな風に自分の主人を幸せにしたいと語るのを、作者が面白おかしく書き綴ったんじゃないかと思うほど、少女が夢見る世界をいかにもあり得そうな丁寧な執筆で描かれています。
北の方や中納言達への仕返しの段階に入ると、運悪く嫌な主人のいる邸に勤めてしまった邸勤めの使用人たちが喜びそうな、意地の悪い主人たちをこっぴどく懲らしめる場面が描かれ、逆に女君に仕えた人達がどんどん幸せになっていく。こんなところに勤められたらと、憧れを感じさせるに十分な表現が駆使されていました。実際の邸の生活ぶりも描かれていて、おいそれと大きな邸になど近寄れない人々には、きっとこんな世界もあるのだろうと夢を持たせたことでしょう。このあたりの細やかな情報が組み込まれている事が、このお話を写実的作品と呼ばせているのだと思います。
最後は少将におとしいれられ、悲劇的な結婚をさせられてしまった四の君の救済の物語。ここは四の姫の事情と、それをめぐる人々の心の動き、そして四の姫の揺れる心を丹念に描いています。傷ついた心と、それでも周りが勢いに流してしまおうとする貴族の身勝手さの中で、それを乗り越えて家族のため、娘のため、そして自分のためにも心を決めて行こうとする四の君の繊細な心模様が私達の胸を揺るがします。貴族社会の中での母と娘の深い情愛。お話の前半が「継子いじめ」の物語なら、この四巻目は「母と娘」のための物語でしょう。
このお話はどうしても前半のドラマチックな展開に注目が集まり、引っ越しや催し物、結婚や昇進と言った、出来事だけが続いてしまう後半は「面白くない」と評されているようです。
けれど私はこのお話は、全巻を通して十分に面白いと思いました。
貴族の意外と世知辛く厳しい生活。それでいて権勢を誇った時の想像を超えるような豪勢な暮らしぶり。それだけに人の心の美しさも醜さも浮き彫りにしてしまう。
律令制による封建社会と、婿取り婚による母系社会によって、歪んだ貴族社会の中で、貴族たちは自分たち家族をどう守ろうとしていたか、どう生き抜こうとしていたのか。
そんな平安貴族と言う特殊な時代の人々の、意外と私達と変わらぬ情愛を感じさせる物語。
その面白さに私は惹かれて、この感想を綴ってきたのです。
これを読んで下さった皆さんには、皆さんだけの感想と、この物語の面白さがあった事と思います。
もし、こんなつたない文章でも、このお話を面白いと感じていただけたなら、是非、『落窪物語』を好きになって下さい。
そうしていただければ、私にとって望外の喜びを感じます。
個人の長い感想に、これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
これを書くにあたって使用した図書
原文
新版 落窪物語(現代語訳付き) 室城秀之 訳注 角川ソフィア文庫
※この本の原文部分を、自分流の表現で訳しました。決して正確な訳ではありませんのでご注意ください。
おちくぼ姫 田辺聖子 著 角川文庫
(落窪物語の入門書的な小説です。内容がダイジェストにまとめられていて、このお話の時代の背景が分かりやすく書かれています)
全訳 用例古語辞典 金田一春彦 監修 学研
(訳のためはもちろん、参考ページの口絵、写真や、資料ページのお世話になりました。年中行事などの参考にもなりました)
新 源氏物語 田辺聖子 著 新潮文庫
(平安中期の恋愛を知るのに源氏は欠かせませんでした。この田辺本と、瀬戸内寂聴本が読みやすいと思います)
まんが あさきゆめみし 大和和記 著 講談社コミックス
(まんがなのでビジュアルで当時の文化が分かります。建築物や道具類、薪の行道の様子も描かれています)
平安朝 元気印列伝 山口仲美 著 丸善ライブラリー
(今昔物語の表現方法についてのエッセイですが、平安末期の女性たちの姿を通して古文表現をユニークに解説されています)
万葉びとの生活 阿部猛 著 東京堂出版
(奈良~平安初期の庶民の生活が書かれています。庶民の生活はこの頃からあまり変わっていない部分も多いです。日本人的なメンタリティにも触れられます)
朝日選書515 平安の都 角田文衛 編著 朝日新聞出版
(当時の都の人口や、生活環境、都人の生活習慣など都人の生きざまに触れられます。平安期の背景を理解するのに便利でした)
他にいくつかの古典案内のホームページも利用しました。
素人の事なので記憶があいまいだったりする事も多いので、特に確認するのにネットの検索にはお世話になりました。
そして、この上なく楽しい作業でもありました。
続けられたのは読んで下さった方々、皆様のおかげです。
稚拙な感想にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




