第九話 焼津
東に走った。
伊勢を出て。海沿いの道を。——風が変わった。西の風が東の風になった。向かい風。走りにくい。しかし走る。風くらいで止まらない。
尾張を通った。
通り過ぎるはずだった。——通り過ぎるだけの土地だった。田が広い。道がまっすぐ。走りやすい。走りやすい土地は通り過ぎやすい。止まる理由がないから。
国造の屋敷の前を走り抜けようとした。——足が止まった。
止まれない足が——止まった。
屋敷の垣根の向こうに——女がいた。庭で。布を干していた。白い布を。竿に広げて、風に当てていた。
目が大きかった。顔が丸かった。——笑っていた。布を干しながら笑っている。何が面白いのか分からない。風が布を膨らませて、布がばたばた鳴っていた。それが面白いらしい。布がばたつくたびに笑っていた。
——なぜ止まったか分からない。布を干す女はどこにでもいる。笑う女もどこにでもいる。特別なことは何もない。
足が止まった。——理由が分からないまま。
「どうしました」
吉備武彦が追いついてきた。
「止まっている。——あなたが止まるのは初めて見ました。叔母上のそば以外で」
「……黙れ」
「何を見ているのですか」
「何も見ていない」
「垣根の向こうを見ていますね。——布を干している女を」
「見ていない」
「見ていますよ。——目が向いている」
「…………」
女が——こっちに気づいた。布の向こうから。
目が合った。——大きい目。丸い顔。笑っていた顔が——止まった。知らない男が垣根の前に立っている。武器を持った男が二十人。——普通なら怖がる。
怖がらなかった。
「何ですか。——通る方ですか」
「……通る」
「通るなら——止まらなくていいのに」
「……ああ」
「止まったということは——用があるのですか」
「用はない」
「用がないのに止まっている男は——変な人ですね」
変な人。——聞いたことのある言葉だった。帳簿で読んだだけの言葉。初代の王の妻が言った言葉。——しかし帳簿の話ではない。この女が今言った。
「変な人かもしれない。——止まれない男が止まった。変だ」
「止まれない?」
「走ることしか知らない男だ。——止まれない。座れない。いつも走っている。今も走っていた。走っていたのに——止まった」
「なぜ止まったのですか」
「分からない。——お前が布を干しているのを見たら止まった」
「布を見て?」
「布を見てじゃない。——布を干しているお前を見て」
言ってしまった。——言うつもりはなかった。口が先に動いた。走る足は止まらないのに、口は止まらずに動く。逆だ。足が止まって口が動く。普段と逆だ。
女が——笑った。笑うと頬に線ができた。目が細くなった。
「面白い人」
「面白くはない」
「面白いですよ。——布を干している女を見て足が止まる男は初めてです」
「名前は」
「……日本武尊。——長い。小碓でいい」
「小碓さま。——私は美夜受比売。この国造の娘です」
「国造の——」
「父は出かけています。——いてもいなくても私は布を干しています。誰が来ても」
「…………」
「水を飲みますか。——走ってきたのでしょう。喉が渇いているでしょう」
「……もらっていいのか」
「布を見て止まった人に水くらい出します」
垣根の中に入った。——水をもらった。冷たかった。井戸の水。うまかった。
座った。——庭の石の上に。足がざわつかなかった。叔母のそば以外で足がざわつかないのは——初めてだった。
「……不思議だ」
「何がですか」
「ここにいると——足が静かだ。いつもざわつくのに」
「足がざわつく?」
「止まれない体なんだ。——座っていると足が動けと言う。ここでは言わない。なぜだか」
「この庭は——風通しが良いからかもしれません。風が通ると体が楽になると、父が言っていました」
「風通し——」
「布を干すのにちょうど良い庭なんです。風が来るから。——あなたの体にも風が通ったのかもしれません」
風か。——嵐の力を持つ男に、穏やかな風が通った。嵐ではない風。布を乾かす風。——そういう風もある。
長くはいられなかった。——足がざわつき始めた。静かだった足が、少しずつ。
「行く」
「もう?」
「止まっていられない。——体がそういう出来だから。長くいると壊れる」
「壊れる?」
「……力がありすぎて。止まっていると溜まる。溜まると——周りが壊れる」
「…………」
「帰りに寄る」
「帰り?」
「東を片付けて——帰りに寄る。もう少し長く」
「……約束ですか」
「約束だ」
「なら——待ちます。布を干しながら」
笑った。頬に線ができた。目が細くなった。——走り出すのが惜しかった。もう少し見ていたかった。もう少しこの庭にいたかった。
しかし足がざわつく。止まれない。
「行く。——帰る」
「帰ってきてください。——布は毎日干しています。いつ来ても」
走り出した。——少しだけ振り返った。走る男は振り返らない。しかし少しだけ。
美夜受比売がまだ立っていた。布を持って。風が布を膨らませていた。——小さくなっていった。
「好きなのですか」
吉備武彦が追いついてきて言った。
「黙れ」
「顔が赤いですよ」
「走っているからだ」
「走って顔が赤くなる人を初めて見ました。——いつもは青白いのに」
「……風のせいだ」
「向かい風で顔が赤くなるのは——物の道理に反していますが」
「黙れと言っている」
「はい。——しかし、良い顔をしていますよ。今のあなたは」
「…………」
「止まれない男が止まった場所は——覚えておいた方がいい。帰る場所になるかもしれない」
「……お前は兵か。仲人か」
「兵です。——ただし先代の仲人の才能を少し受け継いでいるかもしれません」
「先代?」
「初代の王に仕えた大久米命。仲人の名人だったと帳簿にあります」
「帳簿を読んでいるのか。お前が」
「口の減らない兵は——本も読みます」
駿河に入った。
山が迫る土地。道が細い。——海と山の間を縫うように走る。右に海。左に山。左手の奥に——でかい山が見えた。白い頂。雲を突いている。名は知らない。逃げ場が少ない。
「嫌な地形ですね」
吉備武彦が言った。
「何が嫌だ」
「逃げ場がない。——もし挟まれたら」
「挟まれない。——俺は速い」
「速くても——四方を囲まれたら速さは意味がない」
「四方を囲まれることはない。——右は海だ。海から攻めてくる者はいない」
「三方なら囲まれる可能性があると認めるのですね」
「…………」
「油断しないでください。——常軌を逸していても、罠にかかるときはかかる」
駿河の国造が出迎えた。——尾張の国造とは別の男。目が泳いでいた。笑顔の下に別の顔がある。
「ようこそ駿河へ。——日本武尊の名は聞いております」
「そうか」
「歓迎の宴を——」
「宴は要らない。——通してくれればいい」
「では——狩りはいかがですか。この辺りの野に鹿がおります。良い弓の腕を見せていただきたい」
「弓は下手だ」
「下手でも——鹿は大きい。当たります」
吉備武彦が俺の袖を引いた。小さく。
「罠の匂いがします」
「…………」
「宴を断ったら狩りに誘ってきた。——場所を変えただけです。屋根の下か野の上かの違いだけで」
「……分かっている」
「分かっているなら——断りますか」
「行く」
「行くのですか」
「罠なら——先に壊す。行かなければ、いつ来るか分からない。行けば——来る。来た方が楽だ。待つより」
「……走る男の論理ですね」
野に入った。
広い野だった。草が——乾いていた。秋の終わり。枯れた草が腰の高さまで伸びている。風が吹くと波のように揺れる。——乾いた波。
国造の案内で野の中央に来た。——鹿はいなかった。鹿の糞もなかった。鹿がいた形跡がなかった。
「鹿は——どこだ」
「もう少し奥に——」
国造が——いなくなった。
振り返ったら。背中にいたはずの国造が。——走って逃げていた。野の外に。兵を連れて。
「——来る」
四方から——火が出た。
草が燃えた。乾いた秋の草が。一か所ではない。東西南北。四方同時に。——風が火を煽った。乾いた草が爆ぜる音がした。橙色の壁が立ち上がった。煙が空を塞いだ。
「罠だ——!」
吉備武彦が叫んだ。兵が——動揺した。二十人が固まった。
「どっちに逃げる——」
「逃げ場がない——四方から——」
火が——近づいてくる。速い。乾いた草を食って走る火。——俺より速いかもしれない。風が火を押している。火と風が組んで、野を焼き尽くしに来ている。
熱い。——煙が目に入る。息が詰まる。
走って逃げるか。——どこに。四方が火だ。走る方角がない。走る方角がなければ——走れない。
止まるしかない。——止まって。
「剣を——」
吉備武彦が叫んだ。
「草薙剣を——!」
腰に手をやった。鞘に手をかけた。——草薙剣。叔母がくれた剣。「東で使う日が来る」と言った剣。
——今だ。
抜いた。
光った。
刃が——白く光った。伊勢で初めて抜いたときと同じ光。しかし——もっと強い。火に囲まれているからだ。火の熱が剣に触れて、剣が応えている。嵐の力が——火に反応している。
風の音がした。刃から。——鳴っている。高い音。嵐の前の音。空が裂けるような音。
手が震えた。——力ではない。剣の方が震えている。剣が俺の腕を通して体を揺さぶっている。「使え」と言っている。「振れ」と言っている。
振った。——草を。目の前の燃えている草を。
薙いだ。横に。低く。——草が切れた。刈り取られた。燃えている草が根元から飛んだ。
風が——起きた。
剣を振った方向に——風が走った。切れた草を巻き上げて。燃えている草を。火のついた草が風に乗って——火の壁の方に飛んだ。
火が——火に当たった。
「もう一度——!」
振った。反対側に。——また風が起きた。切った草が飛んだ。火のついた草が火の壁に戻った。
三度目。——上から振り下ろした。地面に叩きつけた。
風が——爆発した。
四方に。剣を中心にして。——竜巻のように。渦を巻いて。草を薙ぎ、火を巻き上げ、煙を吹き飛ばした。
火が——裂けた。壁に穴が開いた。南側に。風が火を押し戻して、黒い地面が見えた。——焼けた地面。しかし火は消えている。
「そこだ——走れ——!」
走った。穴の中を。二十人全員。火の壁の隙間を。——焼けた地面は熱かった。足の裏が焼けた。草鞋の底が焦げた。しかし走れた。走って——抜けた。
野の外に出た。火の外に。——振り返ると、野が全部燃えていた。橙色の海になっていた。
剣を——見た。草薙剣を。
光が消えていた。戻っていた。鈍い刃の色に。雲模様がゆっくり動いている。——穏やかに。嵐が過ぎた後の空のように。
「……すごい剣ですね」
吉備武彦が言った。——息が切れている。走ったから。火の中を。
「草を薙いだ。——名前の通りだ」
「名前の通りのことをする剣ですか」
「名前の通りのことをする男が持つ剣だ。——日本武尊が草薙剣を振る。名前と名前が合っている」
「…………」
「叔母上が言っていた。この剣は嵐の力を持っていると。——俺の中にある力と同じ種類の力だと。力の居場所だと」
「居場所——」
「体の中にありすぎる力を、剣に移す。剣を振れば力が出る。——加減ができる。出す量を選べる」
「今のは——加減していたのですか」
「…………」
「あれで加減だったのですか。——竜巻が起きていましたが」
「加減した。——全力ならもっと出る。もっと出たら——お前たちも吹き飛ぶ」
「……常軌を——」
「逸している。知っている」
国造を——追った。
火をつけて逃げた国造を。焼けた野の向こうに。——追いついた。当然だ。俺の方が速い。
国造が振り返った。——顔が白かった。火の中から出てきた男が追いかけてきた。死んでいるはずの男が。
「死んでなかった。——残念だったな」
「ば、化け物——」
「化け物じゃない。——剣がいい剣なだけだ」
国造を殺した。——正面から。裏からではなく。
出雲建のときのような汚い手は使わなかった。殺意を持って火を放った男には——正面から行ける。力の加減も——出来た。壊さなかった。殺したが壊さなかった。必要な分だけ。
兄を殺したときとは違う。クマソのときとは違う。出雲のときとは違う。——初めて、加減して殺した。
加減して殺すことが良いことかどうかは分からない。——しかし周りを巻き込まなかった。国造だけを。国造だけ。
焼けた野に立った。黒い地面。煙が上がっている。——広い野が全部焼けていた。
「この場所——名前がつくかもしれませんね」
吉備武彦が言った。
「何の名前だ」
「焼津。——焼けた津。焼けた場所」
「俺が焼いたんじゃない。——国造が火をつけた」
「しかし草を薙いだのはあなたです。——草薙の名がこの場所にも残る」
「名前ばかり残る。——俺が走った場所に。名前と焼け跡だけ」
「残るものがあるだけましです。——何も残さない者もいる」
「…………」
「走りましょう。——東はまだ遠い」
走った。——東に。
草薙剣が腰にある。——重い。しかし前より軽い。力の居場所を覚えた剣は、体と馴染んでいる。嵐の力が剣の中で眠っている。——使うときだけ起きる。使わないときは眠っている。
これが——加減だ。叔母が教えてくれた加減。峠の男が教えてくれた「止める」力。
止めることが出来れば——走ることも出来る。止められない力は暴走するが、止められる力は——走らせることが出来る。走らせたいときだけ走らせる。
——俺自身が、止まれるようになる日は来るのだろうか。剣は止められた。力は止められた。——体は。足は。走り続ける足は——いつか止まるのだろうか。
分からない。——走っていれば分からなくていい。
東へ。
〈第九話・了〉




