第八話 帰れない
帰る途中で——出雲に寄った。
寄る理由は単純だ。父に言われたのは「西を平らげろ」だ。クマソだけではない。西で従わない者を全部。——出雲建がまだいる。
出雲は——クマソとは違う土地だった。
山がなだらか。海が近い。田が広い。——豊かな土地だ。豊かな土地にいる者は、貧しい土地にいる者より厄介だ。失うものがあるから。失うものがある者は——必死に守る。
出雲建。出雲を治める男。——強いと聞いた。剣がうまいと聞いた。正面からぶつかれば——俺でも苦戦するかもしれない。
「正面から行きますか」
吉備武彦が聞いた。
「…………」
「また女装ですか」
「女装は——もう使えない。クマソで使った噂が流れている。同じ手は二度通じない」
「では」
「……友になる」
「友?」
「友になるふりをして——剣をすり替える」
「…………」
「汚いのは分かっている。——言うな」
「言いません。——ただ、友になるのと友のふりをするのは違います」
「何が違う」
「友のふりをした者は——ふりをしている間も友ではない。しかし友になった者は——裏切る瞬間まで友です。裏切る瞬間に友でなくなる。——どちらの方が痛いか」
「…………」
「裏切る方が痛い。——友であった時間がある分だけ」
「……分かっている」
出雲建に会った。
でかい男だった。クマソの兄ほどではないが、肩が広い。日に焼けた顔。目が明るい。——笑う男だった。よく笑う。
「大和の王の子か。——遠いところからよく来た」
「通りがかりだ。——クマソの帰りに」
「クマソを討ったと聞いた。——すごいな。あの兄弟は強かった。俺でも正面からは嫌だ」
「正面からは行かなかった」
「ああ——女装の話だろう。聞いた。面白い手を使うな」
「面白くはない」
「面白いよ。——俺は好きだ。そういう頭の使い方」
笑った。——明るい笑い方。三毛入野命のような笑い方。帳簿で読んだだけの人の笑い方。——初代の王の兄。何でも面白がる男。
一緒に飯を食った。——三日。
川で泳いだ。——出雲建は泳ぎがうまかった。俺は泳ぎが下手だった。走るのは速いが泳ぎは遅い。足が地面を蹴れないと速くなれない。
「お前——泳ぎが下手だな」
「足で走る男だから。水には足場がない」
「足場がなくても進む方法がある。——水を掴むんだ。手で。水を後ろに押せば前に進む」
「水を——掴む」
「やってみろ」
やった。——少しだけ進めた。出雲建の半分の速さで。
「下手だが——力はある。水の掴み方を覚えれば速くなる」
「教えてくれるのか」
「教える。——友だろう」
友だった。——三日間。
一緒に飯を食って、一緒に泳いで、一緒に笑った。出雲建は良い男だった。裏表がない。笑いたいときに笑って、怒りたいときに怒る。——俺の周りにいない種類の男だった。
吉備武彦が夜に言った。
「本当に——やるのですか」
「…………」
「三日間、あの男は——本当に友として接していた。嘘がなかった。目を見れば分かる。あの男はあなたを友だと思っている」
「分かっている」
「分かっていて——剣をすり替えるのですか」
「…………」
「止めませんが——聞きます。なぜ正面から戦わないのですか。あの男なら正面から受けてくれる。正面から勝てば——友を裏切らずに済む」
「正面から行けば——力が暴走する。俺の力と出雲建の力がぶつかれば、周りが壊れる。集落が壊れる。田が壊れる。——川で泳ぎを教えてくれた男の国を壊したくない」
「壊したくないから——裏切るのですか」
「壊すか裏切るか。——どっちかしか選べない。どっちも汚いが、壊す方がもっと汚い」
「…………」
「お前に言われなくても分かっている。——痛いことは分かっている」
四日目。
出雲建を誘った。
「川で泳ごう。——今日は剣も持っていこう。水の中で素振りをすれば腕が太くなる、と聞いた」
「良いな。——やろう」
川辺で——剣を外した。二人とも。岸に並べた。
俺の剣と、出雲建の剣。——俺の剣は普通の剣。出雲建の剣は良い剣。——しかし見た目は似ている。鞘の色が違うだけだ。
泳いだ。——俺が先に上がった。
剣を——入れ替えた。俺の剣を出雲建の鞘に。出雲建の剣を俺の鞘に。
出雲建が上がってきた。笑いながら。
「今日は少し速くなったぞ。——水を掴めてきた」
「ああ。——お前のおかげだ」
「剣を持って素振りをしよう。——お前も一緒に」
「ああ。——やろう」
「先に抜く。——構えろ」
出雲建が——剣を抜いた。
抜けなかった。
俺の剣。——刃が鈍い。鞘に引っかかる。出雲建の剣とは噛み合わない鞘。
「何だ——抜けない——」
俺が——抜いた。出雲建の剣を。するりと。良い剣は良い鞘から滑り出る。
出雲建が——俺を見た。
分かった。——目が変わった。明るかった目が。暗くなった。理解した。剣がすり替わっていることを。友が友でなかったことを。
「……お前——」
「すまない」
「友だと——思っていた」
「友だった。——三日間は」
「三日間だけか」
「最初から——こうするつもりだった」
「…………」
「泳ぎを教えてくれたこと——忘れない」
「忘れるな。——忘れるなよ。裏切った男」
斬った。
出雲建の剣で。出雲建を。——良い剣だった。軽くて鋭くて。力を入れなくても斬れた。
友を——友の剣で斬った。
出雲を出た。走って。——振り返らなかった。
振り返ったら——出雲建の顔が見える。暗くなった目が見える。「忘れるなよ」が聞こえる。
走った。忘れないために走った。——忘れたいから走るのではなく。忘れないために走った。走っている間は足が痛い。足が痛い間は——友を殺した痛みと混じる。混ぜておけば一つの痛みで済む。
吉備武彦は——何も言わなかった。黙ってついてきた。口の減らない男が——黙っていた。
大和。橿原宮。
帰ってきた。——走って。
父がいた。玉座に。——俺を見た。
「…………」
「報告します。クマソを討った。出雲を討った。——西を平らげた」
「…………」
「名前をもらった。日本武尊と。クマソの兄に。死に際に」
「……そうか」
「帰ってきた」
「…………」
沈黙。——父が黙っている。俺も黙っている。
何か言ってほしかった。——「よくやった」でも「お疲れ」でも「良い名だ」でも。何でもいい。一言でいい。何か。
「休んでいいか」
「…………」
「少し。——少し休みたい。走りっぱなしだった。飯も——ここで食いたい」
父が——俺を見た。怖い目で。まだだ。まだ怖がっている。西を平らげて帰ってきても。名前を得ても。——まだ怖い。
「東に——蝦夷がいる」
「…………」
「東を——討ってこい」
一言。——東を討て。
それだけだった。「よくやった」はなかった。「お疲れ」はなかった。「良い名だ」はなかった。
労いは一言もなく——命令だけが来た。
宮を出た。
門をくぐって。外に出て。——足が止まった。
止まれない足が——止まった。一瞬だけ。
帰ってきた。帰ったはずだ。宮に入って、父に会って、報告した。——帰ったはずなのに。帰った気がしなかった。
「お帰り」がなかった。
帰ったのに——帰れなかった。宮は帰る場所ではなかった。送り出される場所だった。入って出る場所。——通過する場所。
帰る場所と通過する場所は違う。
走った。——伊勢に。
叔母のところに。帰る場所に。
叔母が出てきた。俺を見た。——泣いた。叔母が先に泣いた。
「帰ってきましたね」
「帰ってきた」
「お父様は——」
「東に行けと」
「…………」
「座る間もなかった。飯も食わせてもらえなかった。——名前を見せても何も言わなかった」
「…………」
「叔母上。——父は、俺に死ねと言っているのか」
叔母が——俺の頭に手を置いた。伊勢の宮の前で。
「泣きなさい」
「泣かない——」
「泣きなさい。——ここでは泣いていい」
「泣かない。——泣かない男だ。俺は。兄を殺しても泣かなかった。クマソを殺しても。出雲を——友を殺しても。泣かなかった」
「泣いていいのです。——泣ける場所が一つはあっていい」
「…………」
「走らなくていい。止まっていい。泣いていい。——ここだけは」
泣いた。
声を上げて。——生まれて初めて。声を上げて泣いた。
兄を壊した日に泣かなかった。クマソの兄が名前をくれた日に泣かなかった。出雲建を裏切った日に泣かなかった。父に「東を討て」とだけ言われた日に泣かなかった。
叔母の手が頭にある。——温かかった。父の手は知らない。父に触られた記憶がない。——叔母の手だけが温かかった。
泣いた。——走れない分だけ泣いた。止まっている間だけ泣いた。泣き終わったら——また走る。東に。
三日間。伊勢で止まった。
飯を食った。眠った。座っていた。——足がざわつかなかった。叔母のそばでは。
「東に行くのですね」
「行く。——止まっていたいが」
「草薙剣を持っていきなさい。東で使う日が来ます」
「ああ」
「帰ってきなさい。——ここに。走って」
「帰る」
「たぶんをつけないで」
「……帰る」
走った。——東に。
草薙剣を腰に。出雲建の剣は捨てた。友を斬った剣は持っていたくなかった。
吉備武彦が追いかけてきた。
「また走るのですか」
「また走る」
「今度はどこまで」
「東の果てまで」
「……果てはありますか」
「ある。——走れば着く。走って着かない場所はない」
「帰ってこられますか」
「帰る。——叔母上に約束した。たぶんをつけずに」
「ならば——走りましょう。常軌を逸した速さで」
「ああ。——走る」
〈第八話・了〉




