第七話 宴
クマソの国。——西の果て。
山が深い。谷が深い。道が細い。——大和の盆地とは違う土地だ。盆地は開けている。ここは閉じている。山と山の間に集落がある。集落と集落の間に山がある。——隠れる場所がいくらでもある。
隠れる者を正面から攻めるのは——無理だ。二十人では。二千人でも難しい。山の民を山の中で追い詰めることは出来ない。山は山の民のものだ。
「正面からは無理ですね」
吉備武彦が地形を見て言った。
「最初から正面から行く気はない」
「衣で」
「衣で」
偵察した。吉備武彦が。
「熊曾建の兄弟。兄が大きい。弟が賢い。——兄が上座、弟が脇。兵は三百ほど」
「三百」
「しかし全員が宴に出るわけではない。宴には頭だけ。五十人ほど。——酒が入れば半分は潰れる」
「宴はいつだ」
「三日後。新しい宮が出来た祝いだそうです。——大きな宴を開くと触れが出ている」
「三日後。——間に合う」
「何に間に合うのですか」
「女になるのに」
「…………」
女装の準備をした。——吉備武彦以外の兵には見せなかった。
「見るな」
「見ていません。——しかし、本当にやるのですか」
「やる。叔母上に言われた。力を使うなと。女の姿で行けと」
「しかし——あなた、肩が広い。女に見えますか」
「見えるようにする」
衣を着た。叔母がくれた薄い衣を。肩に布を重ねて広さを隠した。髪を下ろした。——長い。結っていれば男だが、下ろせば背中まで届く。
「顔は——まあ、若いですから。髭もない。遠目には通るかもしれない」
「遠目じゃなく近くに行く」
「近くで通りますか」
「通す。——酒が入った男の目は節穴だ。女の衣を着ていれば女に見える。見たいものを見るのが酔った男だ」
「……誰に教わったのですか。そういう知恵は」
「誰にも。——走りながら考えた」
三日目。夜。
宮に近づいた。——新しい宮。柱が白い。松明が並んでいる。中から声が聞こえる。笑い声。歌声。酒の匂い。——宴が始まっている。
兵に言った。
「外で待て。——騒ぎが起きたら入ってこい。騒ぎが起きなければ入ってくるな」
「騒ぎが起きなければ?」
「静かに終わる。——たぶん」
吉備武彦が言った。
「無事に出てきてください。——常軌を逸した者を失うのは惜しいので」
「……褒めているのか」
「はい」
入った。
女の姿で。頭を下げて。目を伏せて。——酒を運ぶ女たちに混じって。
心臓が鳴っていた。——走るときは鳴らない。走ることには慣れている。止まることに慣れていない。——ゆっくり歩くことに慣れていない。女の歩き方は遅い。小さな歩幅で。膝を閉じて。
遅い。——体がざわつく。走りたい。走って突っ込んで全員殴り倒したい。——我慢する。叔母が言った。力を使うな。暴走するな。狙った相手だけ。
広い部屋だった。松明が壁に並んでいる。中央に炉。肉が焼けている。酒の壺が並んでいる。——男たちが座っている。五十人ほど。
上座に——兄がいた。
熊曾建の兄。——でかかった。座っていても分かる。肩幅が俺の倍ある。腕が丸太のように太い。首が太い。——力がある男の体だ。力の量が違う。俺とは種類が違う力。俺は速さの力。この男は重さの力。
声がでかかった。笑い声がでかかった。——五瀬命のような声だ、と帳簿に書いてあった声。初代の王の兄の声。会ったことはないが——こういう声だったのだろう。
弟が隣にいた。兄より小さい。細い。——しかし目が鋭い。酒を飲みながらも目が死んでいない。周りを見ている。測る目。多芸志美美の目と同じ種類の目。
弟が危ない。——兄は酒で潰れる。弟は潰れない。弟を先に——いや。兄が先だ。兄を殺せば弟は動揺する。動揺した隙に弟も。
酒を注いだ。兄に。
近づいた。——膝をついて。目を伏せて。女の仕草で。
兄が俺を見た。——酔った目で。
「おう——見ない顔だな。どこの娘だ」
「……東の方から参りました」
「東か。——東の女はきれいだと聞いたが、本当だな」
きれいかどうか分からない。——しかし酔った男にはそう見えるらしい。見たいものを見ている。
「もっと近くに来い。——酒を注いでくれ」
近づいた。——間合いの中に入った。
兄の腰に剣がある。しかし酒が回っている。抜くのに三拍かかる。——俺は一拍で動ける。二拍の差。十分だ。
まだだ。——まだ動くな。もう少し酔わせろ。もう少し近づけ。
酒を三杯注いだ。四杯目。五杯目。——兄の目がとろんとしてきた。瞼が重い。声がさらにでかくなった。酔いが深くなると声が大きくなる男だ。
弟を見た。——弟は酒をゆっくり飲んでいる。目が鋭いまま。こちらを——見ていない。見ていないが、空気を読んでいる。何かがおかしいと感じているかもしれない。
今だ。——これ以上待てば弟が気づく。
懐の剣を——抜いた。
草薙剣ではない。普通の剣。腰に差していた短い剣。——叔母が言った。西では草薙は使うな、と。普通の剣で。最小限の力で。
兄の胸に——刺した。
静かだった。——音を立てずに。力を入れずに。刃の重さだけで。自分の力を足さずに。剣の重さだけで人の体に入る角度を——走りながら考えていた。走りながら考えた知恵が、ここで使えた。
兄が——目を開けた。
酔いが醒めた。——刺されて醒めた。俺を見た。女の衣の俺を。
「…………お前——女じゃないな」
「女じゃない」
「男か」
「男だ」
衣を脱いだ。——女の衣を。上半身を晒した。肩が広い。腕が太い。——女ではない。見れば分かる。
兄が——笑った。血を流しながら。
「……やられた。女だと思った。——宴で殺すか。汚い男だ」
「汚い男だ。——否定しない」
「名は」
「小碓。大和の王の子だ」
「大和の——王の子が。女装して。宴で——」
兄が咳をした。血が出た。——しかし目が光っていた。死にかけているのに。
「待て。——死ぬ前に一つ」
「…………」
「名を贈る」
「名を——」
「西にも東にも——お前より強い者はいないだろう。汚かろうが何だろうが。殺された俺が言う。俺を殺した男だから——言える」
兄が——手を伸ばした。血まみれの手で。俺の腕を掴んだ。——力があった。死にかけた男の手とは思えない力。重さの力。この男が一生かけて積み上げた力の残りが、腕を通して伝わってきた。
「お前の名は——今日から。日本武尊」
「日本武尊」
「倭の——最も勇猛な者。お前がそれだ。——汚くても強い。汚くても速い。汚くても——止められない。止められない者を、勇猛と呼ぶ」
「……止められない、が勇猛か」
「勇猛だ。——俺にはない名だ。俺は止まっていた。この山に。この国に。ずっと止まっていた。——止まっている者は勇猛とは言わない。走る者だけが勇猛だ」
手の力が——抜けた。
兄が目を閉じた。——笑ったまま。
弟が——立ち上がった。
剣を抜いた。——速かった。兄が死ぬまで待っていた。兄の最後の言葉を聞いていた。聞き終えてから立った。
「兄を殺したな」
「殺した」
「名を贈ったな。——兄が」
「贈った」
「日本武尊。——良い名だ。兄が贈ったなら本物だ」
剣を構えた。——弟の方が速い。兄より。目が鋭い。酔いがない。
「俺は兄とは違う。——酔っていない。女に騙されない」
「分かっている」
「正面から来い」
正面。——叔母は正面から行くなと言った。力が暴走すると。しかし——弟は正面から来ると言っている。
正面で。——力を入れすぎずに。出来るか。
弟が突いてきた。——速い。峠の男より速い。剣を使える者の速さ。
かわした。——ぎりぎり。剣の先が衣を裂いた。女の衣の残りが。
二撃目。横薙ぎ。しゃがんだ。三撃目。——上から。
止めた。——剣の腹を掌で叩いて逸らした。峠の男に教わった。止めろ。殴るな。——逸らす。力をずらす。
弟が——崩れた。逸らされた勢いで。一瞬。隙が出来た。
短い剣を——弟の首に当てた。刃を。押さずに。当てただけ。
「……殺さないのか」
「降りるなら殺さない」
「兄を殺して——弟を生かすのか」
「兄は俺に名をくれた。——名をくれた男の弟を殺したくない」
「…………」
「降りろ。——剣を降ろせ。生きろ」
弟が——剣を降ろした。
「……変な男だな」
「よく言われる」
外に出た。
兵が待っていた。吉備武彦が先頭にいた。
「騒ぎは——ほとんど聞こえませんでしたが」
「静かに終わった」
「殺しましたか」
「兄だけ。——弟は生かした」
「なぜ」
「名前をもらったから」
「名前?」
「日本武尊。——兄が死に際にくれた」
吉備武彦が——黙った。長く。
「……敵に名をもらう男は初めて見ました」
「俺も初めてだ。——父がくれなかった名を。殺した男がくれた」
「…………」
「良い名だと思うか」
「良い名です。——あなたに合っている。止められない者。走る者。——日本武尊」
「……走るか。帰る」
「大和に?」
「大和に。——父に報告する。名前を見せに」
走った。——東に。帰る方角に。
名前を持って。
日本武尊。——敵にもらった名前。殺した男にもらった名前。
父がくれなかった名前を——死にかけた敵がくれた。嬉しいのか。悲しいのか。
走っていれば分からなくていい。——走る。帰る。名前を持って。
〈第七話・了〉




