第六話 走る
走った。
宮を出て西に走った。振り返らなかった。——走る男は振り返らない。
兵は二十人。
父がつけてくれた——というより、押しつけた二十人。宮の兵の中でも一番若い連中だ。古参はつけなかった。古参を息子に渡すのが惜しかったのか、息子と一緒に死なせたくなかったのか。——どちらでもいい。
二十人の先頭に——一人、変な男がいた。
名を吉備武彦。吉備の出身。背が低い。痩せている。——しかし目が鋭い。俺の走る速さについてくる唯一の男。
「お前——速いな」
「あなたが速すぎるのです」
「ついてこられるのはお前だけだ。他は置いていかれている」
「他が遅いのではなく——あなたが常軌を逸しているのです」
「常軌を逸している、か」
「はい。——人の走る速さではない」
「生まれつきだ。——止まれないから速い。止まれたら遅くなるかもしれない」
「止まれないのですか」
「止まれない。——座っていると足がざわつく。寝ていると背中がざわつく。全身が『動け』と言っている」
「……難儀な体ですね」
「難儀だ」
西に向かう道で——山賊に会った。
山道の曲がり角で。五人。刃物を持っている。道を塞いでいた。
「金を出せ。飯を出せ。——出さなければ殺す」
二十人の兵が刀に手をかけた。——俺が先に出た。
「待て。——俺がやる」
「一人でですか」
「一人で十分だ。——五人くらい」
山賊の先頭の男が——突っ込んできた。刃物を振り上げて。でかい男。腕が太い。
速くない。
俺に比べれば——全部遅い。刃物を振り上げるのが遅い。振り下ろすのが遅い。足を踏み込むのが遅い。——全部見える。見えるから避けられる。
かわした。横に。振り下ろした刃物が地面に刺さった。——男が「え」という顔をした。空振りだ。
掴んだ。——男の腕を。
投げた。——背負って。山賊が空を飛んだ。木の枝にぶつかって落ちた。
二人目が来た。横から。——遅い。右足を蹴った。膝が折れた。転がった。
三人目と四人目が同時に来た。——少しだけ速い。二人がかりだから。左のやつの刃物を叩き落とした。手刀で。右のやつの腹を蹴った。吹っ飛んだ。
五人目が——逃げた。走って。
——遅い。俺より遅い。追いつける。追いついて——
追わなかった。——追う必要がない。逃げる者は追わない。
吉備武彦が言った。
「一人も殺さなかったのですね」
「殺す必要がなかった」
「殺せたのに」
「殺せた。——しかし力を入れすぎると壊れる。兄を壊したときに覚えた。力を入れすぎない方がいい」
「……加減をしたのですか」
「加減というか——力を入れないようにした。力を入れると壊れるから。入れなければ壊れない。蹴れば飛ぶ。投げれば落ちる。——殺すのは、力を入れたときだけだ」
「…………」
「だから刃物は持たない。刃物を持つと——力を入れなくても斬れてしまう。素手なら加減ができる」
「素手で山賊五人を——加減しながら倒した、と」
「ああ」
「……やはり常軌を逸しています」
道中で——もう一つ。
川を渡るところで。橋がなかった。増水していた。渡れない。
兵たちが止まった。「回り道を探しましょう」と。
「回り道は嫌いだ」
「しかし——」
走った。助走をつけて。川に向かって。——跳んだ。
跳べなかった。——半分しか。川の半ばで水に落ちた。当然だ。川幅は十間以上ある。人が跳べる距離ではない。
水の中から——歩いた。流れに逆らって。腰まで水に浸かりながら。足の裏で川底の石を踏んで、一歩ずつ。
「……歩いて渡るんですか」
吉備武彦が岸から叫んだ。
「跳べなかったから歩く」
「流されませんか」
「流されない。——俺は重い。止まれないが重い。水くらいでは流されない」
渡った。——ずぶ濡れで。向こう岸に着いて振り返ると、二十人が呆然と立っていた。
「お前たちは回り道しろ。——先に行っている」
「……待ってください」
伊勢に近づいた。
道中で——何度か戦った。山賊だけではない。通せんぼをする土豪がいた。通行料を取ろうとする者がいた。——全部、素手で片付けた。
一人だけ——強い男がいた。
峠の上に立っていた男。背が高い。腕が太い。目が座っている。——棍棒を持っていた。
「通りたければ——俺を倒せ」
「通せんぼか」
「そうだ。——この峠は俺の峠だ」
「お前の峠? ——誰がそう決めた」
「俺が決めた。——十年ここにいる。十年いたら俺の峠だ」
面白い理屈だった。——しかし通らなければならない。
「素手でやるか」
「素手? ——俺は棍棒を持っているが」
「知っている。——素手の方が面白い」
「面白い男だ。——来い」
棍棒が振り下ろされた。——速い。山賊より速い。地面が割れた。石が飛んだ。
かわした。——ぎりぎりで。風圧が頬をかすめた。強い。——この男は強い。
二撃目。横薙ぎ。——しゃがんだ。棍棒が頭の上を過ぎた。風が鳴った。
三撃目。——上から。避ける。四撃目。横から。避ける。五撃目——
「当たらないな」
「当たらない。——お前は速いが俺はもっと速い」
「当たらないが——お前も攻めてこないな」
「…………」
「攻められないのか。——攻めると壊してしまうからか」
見抜かれた。——棍棒を振り回す男に、力加減の問題を見抜かれた。
「壊したくないなら——掴め。殴るな。蹴るな。——掴んで止めろ」
「止める?」
「俺の棍棒を止めてみろ。——止められたらお前の勝ちだ」
六撃目が来た。——真上から。
掴んだ。——棍棒を。両手で。振り下ろされる棍棒を、頭の上で受け止めた。
重かった。——腕がきしんだ。膝が沈んだ。地面にめり込んだ。
止まった。——棍棒が。俺の手の中で。
男が——笑った。
「止めやがった」
「止めた」
「力があるのに——殴らない男は初めてだ」
「殴ると壊れるから」
「壊れるか。——良い力の使い方を知らないんだな。お前は」
「知らない。——誰にも教わっていない。父は怖がって教えてくれなかった」
「……ひどい父だな」
「ひどい父だ」
男が棍棒を降ろした。
「通れ。——お前の勝ちだ。止めた者の勝ちだ」
「……名は」
「名乗るほどの者じゃない。——峠の男だ」
「峠の男。——覚えておく」
吉備武彦が追いついてきた。
「また一人でやったのですか」
「一人でやった」
「殺しましたか」
「殺していない。——止めた」
「止めた?」
「棍棒を掴んで止めた。——殴るより止める方が良い気がした」
「……少しだけ、人間らしくなってきましたね」
「人間らしい?」
「兄を壊した男が、力の使い方を覚え始めている。——良いことです」
「……お前は俺の何だ。兵か。師匠か」
「兵です。——ただし口の減らない兵です」
伊勢に着いた。
叔母の宮。倭比売命の宮。
叔母が——出てきた。
白い衣。長い髪。——穏やかな顔だった。父と同じ血筋のはずなのに、父とは全然違う顔をしている。父は俺を恐れる顔をする。叔母は——俺を見ている。恐れずに。
「大きくなりましたね」
「走っていたら大きくなった」
「……走って来たのですか。ここまで」
「走ってきた。——途中で山賊を殴って、川を歩いて渡って、峠の男の棍棒を止めた」
「……賑やかな道中ですね」
「賑やかだった」
飯を食わせてもらった。——宮の中で。座って。
座れた。——叔母のそばでは座れる。足がざわつかない。不思議だった。他の場所では座っていられないのに。ここでは座っていられる。
「なぜここでは止まれるのか——分からない」
「分からなくていいのです。——止まれる場所があることだけ、覚えていなさい」
「……ああ」
「お父様が西に行けと」
「ああ。クマソを討てと」
「一人で?」
「二十人いる。——でも、たぶん一人でやる。俺の力なら」
「力で行くのですか」
「…………」
「力だけで行けば——壊すだけです。壊した後に何も残らない」
「……壊す以外のやり方を知らない」
「知らないなら——教えます」
叔母が奥の間から二つのものを持ってきた。
一つは布。衣だった。女の衣。薄い。軽い。——繊細な織りの衣。
「これは——」
「女の衣です。——着なさい」
「着る?」
「正面から行けば力が出る。力が出れば壊す。——正面から行かなければいい。裏から行きなさい。女の姿で」
「女の姿で——」
「クマソの宴に入るのです。女の姿で酒を注いで、酔ったところを——」
「殺すのか」
「はい」
「……汚いな」
「汚い。——しかし力を使わずに済む。正面からぶつかれば、あなたの力は暴れる。狙った相手だけでは済まない。周りも巻き込む。——女の姿で近づけば、必要な相手だけ、必要な力だけで終わらせられる」
力を使わない方法。——素手ではなく、衣で。殴るのではなく、化けて。
汚い。——しかし叔母が言うなら、汚さにも意味がある。
もう一つ。叔母が出したもの。
「剣です」
鞘に入った剣。古い鞘。——表面に模様がある。雲のような模様。動いている。ゆっくりと。生きている模様。
「何だこの模様」
「雲です。嵐の力を持った剣です」
抜いた。
——光った。
白い光。刃全体が光っている。鉄の光ではない。空の光。高い場所の光。風の音がした。刃から。鳴っている。——剣が、鳴っている。
手が震えた。——力で震えたのではない。剣の方が震えていた。剣が俺の手を通して体を震わせた。力が——合っていた。剣の力と俺の力が。嵐の力と走る力が。
「……何だこれは」
「草薙剣。——遠い祖先が天から持ってきた剣です。ずっとこの伊勢に預けられていました」
「天から——」
「あなたの力と同じ種類の力を持っています。止められない力。走る力。嵐の力。——この剣は、あなたのために残されていたのかもしれない」
「俺のために?」
「嵐の力を持つ者が、嵐の剣を持てば——力の居場所ができる。体の中で暴れている力が、剣に移る。剣を振れば力が出る。体から力が抜ける。——加減が出来るようになるかもしれない」
振ってみた。——宮の外で。空に向かって。
風が起きた。木の葉が舞い上がった。鳥が飛んだ。——一振りで。
体が——軽くなった。いつもざわついていた足が。背中が。腕が。——軽い。力が剣に移った。体の中にあった圧が、刃を通して外に出た。
「……軽い」
「力が出たのです。——体の中にありすぎた力が」
「今まで——ずっと力がありすぎたのか」
「ありすぎたのです。行き場がなかった。行き場がないから、触れたものを壊した。兄を壊したのも——力がありすぎたからです。あなたが悪いのではない」
「…………」
「剣に力を預けなさい。剣を振れば力が出る。振らなければ溜まる。——溜まりすぎる前に振りなさい。それが加減です」
泣きそうになった。——泣かなかった。泣かない男だ。兄を殺しても泣かなかった。
しかし——叔母の前では。少しだけ。目が熱くなった。
力がありすぎた。——ずっと。生まれてから。止まれなかったのも、走り続けたのも、兄を壊したのも。力がありすぎたからだ。行き場がなかったからだ。
父は——知っていたのか。知っていて怖がっていたのか。知っていて教えなかったのか。
教えてくれたのは叔母だった。——父ではなく。
「今は持っていきなさい。西では——使わなくていい。女の衣で十分です。東に行く日が来たとき、この剣が守ります」
「東?」
「東に行く日が来ます。——剣は腰に。見せないように」
「……帰ってきていいか」
「帰ってきなさい。——ここに。伊勢に。走って帰ってきなさい。帰る場所が一つはあると、覚えておきなさい」
走り出した。——西に。
女の衣を懐に。草薙剣を腰に。
体が軽かった。——今までより。力の居場所を見つけた体が。剣に預けた分だけ軽くなった体が。
走る。——西に。クマソの国に。
止まれない。——しかし少しだけ、力の使い方が分かった。殴るな。止めろ。素手でだめなら衣で行け。力を入れるな。——力を出すなら剣を通せ。
吉備武彦が走って追いかけてきた。
「待ってください。——また置いていくのですか」
「走れ。——ついてこられるのはお前だけだ」
「光栄です。——しかし、もう少しゆっくり走ってくれませんか」
「走れない速さでは走らない。——走れる速さで走る。それだけだ」
「……常軌を——」
「逸している。知っている」
〈第六話・了〉




