第五話 送り出す父
俺の名は大帯日子淤斯呂和気。十二代目の王。
息子が——怖い。
双子が生まれた。
兄を大碓。弟を小碓。——同じ日に生まれた。同じ母から。しかし——最初から違った。
大碓は泣いた。大きな声で。元気な子だった。——普通の子だった。
小碓は——泣かなかった。
生まれて、目を開けて、俺を見た。——生まれたばかりの赤子が、父を見た。見る、というより——測る目だった。あの目を昔の帳簿で読んだことがある。初代の長男・多芸志美美の目。何かを測る目。
嫌な予感がした。——生まれた日に。
小碓は——大きくなった。速く。
歩くのが早かった。喋るのが早かった。走るのが早かった。——何でも速い子だった。兄の大碓より先に歩き、先に喋り、先に走った。
弟が兄を追い越す。——それだけなら珍しくない。問題は速さだった。追い越し方が速すぎた。兄が一歩歩く間に三歩走る。兄が一言喋る間に十言喋る。——速い。何もかもが速い。
止まらない子だった。
座っていない。常に動いている。走っている。木に登っている。石を投げている。——止まれない。体が止まることを知らない。
「あの子は——止まれない子です」
母が言った。——心配の声で。
「止まらなくていい。——走っているうちは、ましだ」
俺は——そう答えた。走っているうちは。走っている子供は、ただの元気な子供だ。——止まったときに何をするかが怖い。
十五の年だった。
大碓が——飯の席に来なくなった。
朝の飯。夕の飯。王の家では一緒に食う。——大碓が来ない。三日続けて来なかった。
小碓に言った。
「兄が飯に来ない。——お前、声をかけてこい。一緒に食おうと」
「分かった」
それだけだった。——「分かった」と言って、走っていった。いつも通り。速く。
翌朝。大碓が来なかった。——小碓は来た。一人で。何事もない顔で飯を食っていた。
「兄は」
「教えた」
「教えた?」
「朝の飯に来いと教えた」
「教えたのに来ていないが」
「来られない」
「なぜだ」
「壊したから」
「…………」
「朝、厠に入るところを待っていた。出てきたところを掴んだ。——教えた。飯に来いと。力を入れすぎた」
「力を入れすぎた——とは」
「壊れた。——兄が。薦に包んで捨てた」
飯を食いながら言った。——飯を食う手が止まらなかった。箸を動かしながら、兄を殺したことを報告した。
怖かった。
息子が怖かった。——十五歳の子供が、兄を素手で殺して、飯を食いながら報告している。手が震えていない。声が震えていない。——何も震えていない。
震えるべきだ。人を殺したなら。兄を殺したなら。——震えるのが人だ。
震えていない。
この子は——止まれないだけではない。震えない。止まることも震えることも知らない。走るだけだ。走って、ぶつかって、壊して、走り続ける。
怖い。——俺は王だ。王が息子を怖がっている。
怖いものは——遠ざける。遠ざけるには——送り出すしかない。
西にクマソがいる。——熊曾建。西の国の豪族。王に従わない者。従わせる必要がある。兵を送る必要がある。
兵を——送るのではない。息子を送る。
「小碓」
「何だ」
「西に行け。——クマソを討て」
「…………」
「お前の力を使え。——ここではなく、西で」
ここではなく。——ここでは使わせられない。ここで使えば——俺が壊される。宮が壊される。国が壊される。
西で使え。遠くで。——俺の目の届かないところで。
「兵は」
「少しだけつける。——多くは要らないだろう。お前の力なら」
「…………」
「行けるか」
「行ける。——走ればいい」
走ればいい。——この子は走ることしか知らない。走る場所を与えれば走る。走っている間は——ここにいない。ここにいなければ——怖くない。
小碓が——出て行った。西に向かって。走って。
速かった。——振り返らなかった。走る子供は振り返らない。前しか見ていない。
見送った。——宮の前で。
初代の王は——息子を心配しながら戦に送り出したと帳簿にある。多芸志美美に船を任せ、物見を任せ、背中を見ていたと。
俺は違う。
俺は——息子を恐れて送り出した。心配ではなく恐怖で。「行ってこい」ではなく「行ってくれ」で。
父が息子を恐れて遠ざける。——これが俺の治め方だ。初代の王とは違う。初代は聞こえる王だった。息子の心を聞こうとした。聞こえなかったが——聞こうとした。
俺は聞こうとしなかった。怖くて聞けなかった。——飯を食いながら兄を殺す子供の心を聞く耳が、俺にはなかった。
小碓が走っていった西の方角を——見ていた。
あの子は帰ってくる。——たぶん。クマソを殺して帰ってくる。帰ってきたら——次はどこに送る。東か。北か。——どこか遠くに。ずっと遠くに。
帰ってくるたびに送り出す。——帰らせないために。
ひどい父だ。——分かっている。
分かっていてやる。王だから。国を守るために。国を——あの子から。
走っていく背中が小さくなった。——速い。小さくなるのが速い。
あの速さは——誰の血だろう。俺の血ではない。母の血でもない。——もっと古い血だ。初代の兄にいたという。声がでかくて前に出たがる兄。あの血が——十二代を経て、こんな形で出たのかもしれない。
走ることしか知らない子供。——止まることも、震えることも、帰ることも知らない子供。
その子供に——名前がつく。西で。敵の口から。
日本武尊。
——まだ知らない。俺も、あの子も。あの名前を、まだ。
〈第五話・了〉




