第十話 走水
東に走った。焼津を過ぎて。焼けた野を背にして。
相模の国で——女に会った。
走っていた。道を。山と海の間の道を。——前方に人がいた。女が一人。道の真ん中に立っていた。
立っているだけだった。——荷物を持っている。背中に。大きな荷物。一人では重そうな。道の真ん中で——立ち止まっていた。
「どけ。——走っている」
叫んだ。近づきながら。——女が振り返った。
「走っているのは分かります。——どかないと当たりますか」
「当たる。——止まれない」
「止まれないのですか」
「止まれない体だ。——どけ」
女が——横に避けた。一歩だけ。俺が走り抜けた。風が女の髪を揺らした。
走り抜けて——十歩ほどで振り返った。なぜ振り返ったか分からない。走る男は振り返らないのに。
女が——座り込んでいた。荷物の重さで。背中の荷物が大きすぎて、避けた拍子にバランスを崩したらしい。
戻った。——走って。
「大丈夫か」
「大丈夫です。——荷物が重くて」
「どこに行く」
「東に。——親戚のところに届ける荷物です」
「一人で?」
「一人で」
「重いだろう」
「重い。——しかし届けなければならないので」
手を貸した。——荷物を持ち上げた。軽かった。俺には。しかし女の体にはこの荷物は重い。
「持ってやる」
「え——」
「東に行くんだろう。俺も東に行く。——途中まで持ってやる」
「あの——走るのですか。この荷物を持って」
「走る。——荷物くらいで遅くならない」
「走らなくていいです。——歩いてくれませんか」
「歩く?」
「荷物の中身が割れる。——走ると揺れて」
「…………」
「歩いてください。——お願いします」
歩いた。——生まれて初めてかもしれない。誰かのために歩いた。
遅い。足がざわつく。——しかし荷物が揺れないように。中身が割れないように。力を入れすぎないように。——加減だ。剣だけでなく、歩く速さにも加減がある。
「ありがとうございます。——お名前は」
「……日本武尊」
「長い名前ですね」
「長い。——小碓でいい」
「小碓さま。——私は弟橘媛。相模の者です」
「弟橘媛」
「橘の花が好きなので——母がつけました」
歩いた。——半日。
荷物を届けた。弟橘媛の親戚の家に。——それで終わるはずだった。荷物を渡して、走り出すはずだった。
「ありがとうございました。——走ってください。止まれない方なのでしょう」
「ああ。——走る」
「走ってください」
「…………」
「…………」
走り出さなかった。——足がざわつかなかった。美夜受比売の庭のときと同じだ。この女のそばにいると——足が静かになる。
「……走らないのですか」
「……走れない」
「止まれない方が走れないのですか」
「お前のそばにいると——足が静かになる。ざわつかない。走れない」
「…………」
「困った」
「困りましたね」
「笑うな」
「笑っていません。——少しだけ嬉しいのです」
「何が嬉しい」
「走れない人が走れなくなる場所に——私がなれたことが」
弟橘媛は——ついてきた。
走らなかった。歩いた。——俺が走ると少し遅れる。俺が歩くと追いつく。追いかけてこない。置いていかれてもいない。——不思議な距離を保って歩く女。
吉備武彦が言った。
「また増えましたね。——女が」
「増えていない。ついてきているだけだ」
「ついてきている女は——増えたと言います」
「…………」
「止めないのですか」
「止めて聞く女か」
「……聞かないでしょうね。あの女は」
「だから止めない」
ある夜。焚火のそばで。弟橘媛が言った。
「私は——あなたが走る姿を見ています」
「見ている?」
「はい。——走っている姿は、走っている本人には見えないでしょう」
「見えない。——前しか見ていないから」
「だから私が見ています。後ろから。横から。——あなたがどんな顔で走っているか。どんな足で走っているか。全部見ています」
「……なぜ見る」
「見たいからです。——走る人は美しい。止まれない人はもっと美しい。止まれないのに止まろうとする人は——一番美しい」
「俺は美しくない」
「美しいです。——あなたが美しくないと思っているのは、自分が見えないからです。私が見ています。——あなたの代わりに」
妻になった。——いつからか分からない。正確には分からない。隣にいて、見ていて、歩いていて。——気がつけば、いた。
美夜受比売のような止まる恋ではなかった。弟橘媛は止まらない。止まらないが走らない。歩く。——走る男のそばを歩く。その距離が——妻の距離になった。
走水。——海峡。
東に行くには——この海を渡らなければならない。向こう岸が見える。近い。しかし——水が走っている。名前の通り。潮が速い。白い波が立っている。
「渡れるか」
吉備武彦に聞いた。
「船があれば。——小さい船は無理だ。潮に流される。大きい船なら——なんとか」
船を借りた。相模の漁師から。大きめの船。——兵二十人と弟橘媛が乗れる船。
漕ぎ出した。
潮が——速かった。船が流される。漕いでも漕いでも——横に流れる。向こう岸に向かっているはずなのに、斜めに流れていく。
「漕げ——! もっと強く——!」
兵が漕いだ。腕が千切れるほど。——しかし潮が強い。
そして——風が変わった。
嵐が来た。
一瞬で。空が暗くなった。雲が海から湧いた。風が叩きつけてきた。波が——船を持ち上げた。叩きつけた。
「嵐だ——!」
草薙剣を抜いた。——焼津で火を返した剣を。嵐の力を持つ剣を。
振った。——海に向かって。風を斬るように。
風が——変わらなかった。
もう一度振った。——変わらない。草薙剣の風が、海の嵐に負けている。陸の上では風を変えられた。——海の上では通じない。海は陸より大きい。海の嵐は陸の風より深い。
「効かない——」
「当然です」
弟橘媛が——立っていた。船の上で。揺れる船の上で。——揺れていなかった。船が揺れているのに、この女だけ揺れていない。足が甲板に張り付いている。
「剣は陸の道具です。——海には効かない。海を斬れば海が怒る。もっと荒れる」
「ではどうする——」
「海は——寂しいのです」
「寂しい?」
「嵐は怒りではない。——誰かに来てほしいのです。海は広い。広すぎて寂しい。寂しいから荒れる。——誰かが来てくれれば静まる」
「来る——とは」
「海に入る。——誰かが」
「お前が行く必要はない」
「あります」
「ない。——俺が行く。俺が海に入る」
「あなたが入ったら——東が終わらない。走る人が沈んだら、走る先にいる者が困る」
「走る先にいる者など——」
「います。——東に。あなたを待っている者。あなたが走ってくるのを待っている者。美夜受比売さまが帰りを待っている。叔母上さまが帰りを待っている。——走る人が止まったら、待つ人が泣く」
「お前が沈んだら——俺が泣く」
「…………」
「泣かない男が泣く。——そうなるぞ」
「泣いてください。——泣ける人になってください。私が沈んだ後に」
「——聞け」
「聞いています」
「あなたは走りなさい。走って走って帰りなさい。帰る場所に。——伊勢に。尾張に」
「お前も帰る場所だ」
「私は——ここにいます」
「ここ——」
「ここにいます。——海の中に。海の底に。ここにいます」
ここにいる。——海の上で。海に入る前に。「ここにいます」と言った。
弟橘媛が——俺を見た。最後に。目が穏やかだった。走る男を見ていた目。美しいと言った目。——その目が、最後に笑った。
「見ていましたよ。——ずっと。あなたが走る姿を。美しかった。——最後まで」
「待て——」
「待ちません。——あなたが止まれないように。私も止まれない。止まったら、あなたが沈む」
船の縁に立った。——風が吹いていた。髪が揺れていた。
飛び込んだのではなかった。——歩いて入った。船の縁から。足から。一歩ずつ。——歩く人は歩いて入る。走る人のように飛び込まない。歩くように。最後まで。
静かだった。——波を割らずに入っていった。音がしない入り方だった。
海が——静まった。
嵐が止まった。波が引いた。風が止まった。——船が揺れなくなった。
水面が——澄んでいた。弟橘媛が入った場所だけ。一か所だけ。水が光っていた。
剣を——握っていた。草薙剣を。握りしめていた。——力が入りすぎていた。柄が軋んでいた。
加減が——出来なかった。握る力の加減が。
「…………」
吉備武彦が——隣に来た。何も言わなかった。口の減らない男が——何も言わなかった。
向こう岸に着いた。——走水を渡った。
船を降りた。地面に足がついた。
振り返った。海を。——何も見えなかった。水面が光っていた。静かだった。
弟橘媛が——いない。
隣に——いない。後ろに——いない。走る俺を見ていた人が。歩いていた人が。
見ている者がいなくなった。——走っても、誰も見ていない。走る姿が分からない。走っているのか倒れているのか——分からない。
足を踏み出した。——東に。
走った。——止まれなかった。止まったら、沈んだ意味がなくなる。走るために沈んだのだから。走らなければ——あの女が浮かばれない。
走った。——泣きながら。
泣かない男が。兄を殺しても泣かなかった男が。クマソを殺しても出雲を裏切っても泣かなかった男が。——走りながら泣いた。
叔母の前でしか泣けなかった男が——走りながら泣いた。止まらずに。足を動かしながら。——弟橘媛が言った通りだ。泣ける人になった。沈んだ後に。
涙が——風に飛んだ。後ろに。走る男の涙は後ろに飛ぶ。——弟橘媛がいた方角に。海の方角に。
〈第十話・了〉




