第三話 祟る神
俺の名は御真木入日子印恵。十代目の王。
——聞こえない王だ。
初代は聞こえたらしい。足の裏で。波の音で。風の向きで。全部聞こえたと帳簿に書いてある。二代目も少し聞こえた。三代目は——分からない。帳簿に書いていない。
七人の「名前だけの王たち」のあいだに、聞こえる力は薄まった。血が混じるたびに。代が重なるたびに。——初代の耳は、十代目の俺には届いていない。
足の裏が温かい場所がある——と、昔の帳簿に書いてある。読んでも分からなかった。踏んでも分からなかった。温かいも冷たいも——俺の足には同じだった。
聞こえない。——何も。
それでも王をやれた。七人の先代がやったように。田を壊さず。水路を止めず。民の邪魔をせず。——何もしないことで国を保った。
保てていた。——あの日までは。
疫病が来た。
どこから来たか分からない。山からか。海からか。——ある日、集落の一つで人が倒れた。次の日、隣の集落で倒れた。次の日——その隣で。
広がった。止められなかった。——止め方を知らなかった。七代のあいだ、疫病は来なかった。来なかったから、止め方を誰も知らなかった。
民が死んだ。
半分——と言う者もいた。三分の一と言う者もいた。数えた者はいない。数える者も倒れたからだ。記す係が倒れた代は——帳簿に穴が開く。
田が枯れた。
死んだのは人だけではなかった。耕す者がいなくなった田が荒れた。水路を直す者がいなくなった水路が詰まった。——七代かけて伸びた根が、枯れ始めた。
俺は——何もできなかった。
聞こえないからだ。何が起きているか分からない。何が怒っているか分からない。初代なら聞こえただろう。足の裏で。耳で。——俺には聞こえない。
ただ——一つだけ分かったことがある。
足の裏が——冷たかった。
初めてだった。温かいも冷たいも分からない俺の足が——冷たいと感じた。今まで何も感じなかったのに。冷たさだけが分かった。
温かさは分からなくても——温かさが消えたことは分かる。あったものがなくなると、なくなった分だけ冷たくなる。冷たさとは温かさの不在だ。
何かが——怒っている。この土地の下にいる何かが。
夢を見た。
王が夢を見ることは——珍しくない。しかし俺は夢を覚えない男だった。見ても忘れる。聞こえない男は、夢も聞こえない。
この夢だけは——忘れなかった。
暗闇の中に——声があった。声だけ。姿はない。
「——俺の子に祭らせろ」
「誰だ」
「この山にいる者だ」
「三輪山の——」
「俺の子を探せ。名は意富多多泥古。——あいつに祭らせろ。祭りが途絶えている。途絶えたから怒っている。俺が、ではない。土地が。道が。——温めてきたものが冷えかけている」
「温めてきた——」
「お前の足が冷たいのはそのせいだ。——祭りを戻せ。道を温め直せ。でなければ——もっと冷える」
目が覚めた。
足の裏が——まだ冷たかった。
大物主。三輪山の神。——初代の妃の父だったという。遠い先祖の義父。
帳簿を漁った。古い帳簿を。初代の記す係が残した帳簿を。——大物主の名があった。「足の裏の温かさの主」と。
温かさの主。——温めてきた者。道を。国を。何代も。
その祭りが——途絶えていた。
七代の「名前だけの王たち」のあいだに。静かな代のあいだに。——田は増えたが、祭りは減った。三輪山に登る者が減った。山の神に飯を供える者が減った。——誰も壊さなかったが、誰も続けなかった。続けなかったことが——壊したのと同じだった。
意富多多泥古を探した。大物主の子。——人の女との間に生まれた子の、その子の、そのまた子。何代か経ている。血が薄まっている。しかし——いる。
見つけた。河内にいた。普通の男だった。農夫だった。
「お前が——大物主の子孫か」
「……そう聞いています。曾祖母がそう言っていました」
「三輪山の祭りを——やれるか」
「祭り?」
「山の神に飯を供えて、酒を注いで、祝詞を上げる。——やり方を知っているか」
「知りません。——しかし、曾祖母が少しだけ教えてくれました。山に登って、石の前に座って、黙ること。それだけでいいと」
「黙ること」
「はい。——黙って座っていれば、山が聞いてくれる、と」
意富多多泥古を三輪山の祭主にした。
男は山に登った。山頂の石の前に座った。——飯を供えて。酒を注いで。黙った。
何日か経った。
疫病が——止まった。
止まった理由は分からない。季節が変わったからかもしれない。風向きが変わったからかもしれない。——しかし祭りを再開した日から、新しく倒れる者が出なくなった。
偶然かもしれない。——しかし足の裏が、少しだけ温かくなった。冷たさが減った。温かさが戻ったのではない。冷たさが減った。——微かに。
分かったことがある。
聞こえない王にも——分かることがある。
温かさは分からない。初代のように足の裏で道を聞くことはできない。——しかし冷たさは分かる。温かさが消えかけたとき、冷たさとして分かる。
聞こえる力は薄まった。十代で。——しかし完全には消えていない。消えていたら、冷たさも分からないはずだ。冷たさが分かるということは——根が、まだ生きているということだ。
祭りを続けろ。——道を温め続けろ。温めてきた者を忘れるな。忘れれば冷える。冷えれば枯れる。
何もしないことで国を保った七代があった。——何もしなくてもいい。しかし忘れてはいけない。忘れないことは——何かをすることだ。
田が戻り始めた。枯れた田に人が戻った。水路を直す者が現れた。——国が、もう一度動き始めた。
俺は——まだ聞こえない。聞こえないまま王をやる。冷たさだけを頼りに。温かさが消えかけたら、気づく。——それが俺のやり方だ。初代とは違う。違うが——同じ足の裏で立っている。
〈第三話・了〉




