第二話 名前だけの王たち
記す係の帳簿から。
宮には記す係がいる。——初代の王が作った役目だ。
初代は自分で記していたという。聞こえたことを全部。兵の数を。船の数を。死んだ者の名を。——左手で。右手が動かなかったから。
初代が死んで、記す係は別の者に引き継がれた。引き継がれて、また引き継がれた。帳簿が積まれた。——俺はその何代目かだ。名前は要らない。記す係に名前は要らない。記すことが仕事であって、記す者の名は帳簿に残らない。
記す。
名前だけの王たちのことを。
第三代。師木津日子玉手見命。
何をしたか。——帳簿に、ほとんど残っていない。
宮を片塩に移した。妻を娶った。子が生まれた。——死んだ。
それだけだ。戦はなかった。遠征もなかった。国が揺れることもなかった。——静かな代だった。
静かな代を記すのは難しい。何も起きなかったことを、何と記すのか。「何もなかった」と記せば一行で終わる。一行で終わる代に意味はあるのか。
——ある。
何も起きなかったということは、何も壊れなかったということだ。初代が建てた宮が倒れなかった。二代目が守った国が崩れなかった。——田が耕され、水路が流れ、子供が走り回った。
何も起きないことは——根が伸びていることだ。見えない場所で。
第四代。大倭日子鉏友命。
何をしたか。——宮を軽に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
同じだ。——三代目と同じだ。名前が違うだけで、帳簿の中身が同じだ。
第五代。御真津日子訶恵志泥命。
宮を掖上に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
第六代。大倭帯日子国押人命。
宮を室に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
第七代。大倭根子日子賦斗邇命。
宮を黒田に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
第八代。大倭根子日子国玖琉命。
宮を軽に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
第九代。若倭根子日子大毘毘命。
宮を春日に移した。妻を娶った。子が生まれた。死んだ。
七人。——三代目から九代目まで。七人の王。
帳簿に残っているのは名前と宮の場所と妻と子供だけだ。事績がない。戦がない。遠征がない。政の記録も——ほとんどない。
記す係として——苦しい。記すことがない代を記すのは苦しい。「何もなかった」と書き続けるのは——虚しい。
しかし。
帳簿の外に——残っているものがある。
田が増えた。
初代が来たとき、盆地の田は少なかった。長髄彦が耕した畝と、その周りの小さな田だけだった。
七人の王の代を経て——田が盆地を埋めた。山の際まで。水路が伸びた。道が伸びた。家が増えた。集落が増えた。
誰がやったのか。——七人の王がやったのか。帳簿にはない。しかし誰かがやった。王が命じたのか、民が自分でやったのか。——たぶん、両方だ。王が邪魔しなかったから、民が自分で耕した。王が壊さなかったから、民が自分で建てた。
何もしなかった王は——邪魔もしなかった。邪魔しないことは、治めることと同じかもしれない。
もう一つ。
名前が——長くなっていく。
初代は「狭野」だった。二文字。
七人の王の名前は——どんどん長くなっている。大倭帯日子国押人命。——何文字だ。数えたくない。
名前が長くなるのは——積み重なっているからだ。先代の名前の一部が次の代に入る。「大倭」が繰り返される。「根子」が繰り返される。「日子」が繰り返される。
根が。ここにある。名前の中に。
「根子」。——根の子。名前に「根」が入っている。根を張った者の子。根を張った者の孫。根を張った者の子孫。——名前が「根」を名乗っている。
事績がなくても。帳簿が薄くても。——名前の中に根がある。
記す係として——分かることがある。
派手な代は記しやすい。戦があれば書ける。遠征があれば書ける。数字がある。敵がいる。勝ち負けがある。——初代の帳簿は厚い。書くことが山ほどあったから。
静かな代は記しにくい。書くことがない。——しかし静かな代がなければ、派手な代は来ない。田がなければ兵は集まらない。水路がなければ飯がない。道がなければ人が動かない。——七人の王の代に積み重なったものが、次の代を支える。
根は見えない。——しかし根がなければ花は咲かない。
九代目が死んだ。
次の王は——十代目。御真木入日子印恵命。
この王の代に——根が揺れる。見えない根が。温かかった道が。——初めて、揺れる。
静かな時代が終わる。
〈第二話・了〉




