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第一話 タギシミミの変


 父が死んだ。

 静かだった。——父はいつも静かだった。声が小さい男だった。声が小さいのに、千二百人がその声を聞いた。聞こえたことだけを言う声は、小さくても届くのだと——父が教えてくれた。

 死に方も静かだった。朝、目を閉じたまま起きなかった。息が止まっていた。——祖父と同じ死に方だと、母が言った。鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと。間に合わなかった名前の男。その男と同じように——布の中で静かに終わった。

 花の血だ。短い命の血。天孫てんそんの家に流れる花の色の血。——父はその血で六十を過ぎても歩いた。十八年歩いた。歩き切った。歩き切ってから——止まった。

 俺の名は神沼河耳かむぬなかわみみ。父の次男。

 俺は——聞こえる子だった。

 父と同じで。足の裏が温かい場所と冷たい場所の違いが分かる。音の奥にある温度が聞ける。——父ほどではない。父は全部聞こえた。俺は半分くらいしか聞こえない。

 しかし——聞こえないものがあった。

 兄の心だ。

 多芸志美美命たぎしみみのみこと。父の長男。母が違う。

 俺の母は伊須気余理比売いすけよりひめ大物主おおものぬしの娘。——多芸志美美たぎしみみの母は吾平津媛あひらつひめ阿多あた海人あまの娘。父が若い頃にめとって、早くに亡くした女。

 多芸志美美たぎしみみは——俺たちより年が離れている。兄というより叔父のような距離だった。子供の頃、肩に乗せてくれた。船の操り方を教えてくれた。水路に笹の葉の船を浮かべて競争した。——良い兄だった。

 良い兄だった。——父が生きているあいだは。

 父が死んで——兄が変わった。

 いや。変わったのではないかもしれない。——見えるようになったのだ。父がいたときは見えなかったものが。

 父の婚礼の日。母と父が並んだ日。——兄は末席にいた。複雑な顔をしていた。あのとき何を測っていたのか、父には聞こえなかった。俺にも聞こえなかった。

 今——分かった。

 兄は測っていた。自分の位置を。この家の中での。——長男なのに末席にいる自分の位置を。

 父が死んで七日。

 兄が——宮に来た。

 橿原宮かしはらのみやに。兄は宮の外に家を持っていた。船大工の嫁と暮らしていた。宮の中にはいなかった。——父が即位してからずっと。

 来た。朝。門を通って。——兵を連れて。

 兵。——三十人。多芸志美美たぎしみみが自分で集めた者たち。船乗りが多い。海人あまの血を引く者。腕が太い。

「何だ。——何の用だ」

 兄の日子八井ひこやいが聞いた。声がでかい。——父の兄の五瀬命いつせのみことに似た声。朝から全力で喋る男。

 多芸志美美たぎしみみは答えなかった。日子八井ひこやいを見て——俺を見て——母を見た。

 母を。

「宮を預かりに来た」

 多芸志美美たぎしみみが言った。

「預かる?」

「父が死んだ。——次を決めなければならない。俺が長男だ。預かるのは筋だ」

「預かるのと継ぐのは違うぞ」

 日子八井ひこやいが言った。

「預かる。——まず預かる。継ぐかどうかは後で決める」

「後で? ——何を後で決める。父の宮は父の子が継ぐ。俺たちだ。お前も俺たちも父の子だ。——話し合えばいい」

「話し合いに来た。——兵を連れて」

「兵を連れた話し合いがあるか」

「ある。——話し合いにも種類がある」

 俺は——聞いていた。

 多芸志美美たぎしみみの声を。息の音を。——温度を。

 冷たかった。

 兄の声が冷たい。昔はこんな温度ではなかった。子供の頃、肩に乗せてくれたとき、兄の声は温かかった。水路で笹の船を浮かべたとき、笑っていた。——あの温度がない。

 代わりにあるのは——測る温度。あの目の温度。生まれたときから何かを測っていた目の温度。

 兄は——ずっと測っていた。自分の位置を。長男なのに末席にいる自分の位置を。父が新しい妻を迎えたときの。新しい子供が生まれたときの。——ずっと。

 そして父が死んで——蓋が取れた。測っていたものの正体が見えた。

 母が——出てきた。

 伊須気余理比売いすけよりひめ。温かい手の女。大物主おおものぬしの娘。——父が足の裏で選んだ女。

多芸志美美たぎしみみ

「母上——」

「母ではありません。——私はあなたのお母様ではない」

「…………」

「あなたのお母様は吾平津媛あひらつひめ。海の人。——私は父上の後の妻です。あなたにとっては——」

「分かっている。——分かった上で来た」

「何をしに」

「宮を預かりに。——俺は長男だ。父がいない以上、俺が宮を守る」

「守る、ですか。——兵を連れて」

「…………」

「兵を連れて守りに来る者はいません。——兵を連れて来るのは、奪いに来るときです」

 母の声が——静かだった。怒っていない。怖がってもいない。——ただ静かに、聞こえたことを言っている。父と同じだ。聞こえたことを言う声は、静かでも届く。

 多芸志美美たぎしみみの目が——揺れた。一瞬だけ。

 母の言葉が——刺さった。俺の耳にはそう聞こえた。「奪いに来る」と言われて、兄の息の音が一瞬乱れた。

 兄は——知っている。自分が何をしに来たか。知った上で「預かる」と言っている。言い換えている。——父が忍坂おしさかの宴で「歌を合図に」と言ったように。やることの名前を変えて、形を整えている。

 しかし——母は名前を変えさせなかった。「奪いに来た」と言った。正面から。

 日子八井ひこやいが——弓を取った。

 壁にかけてあった弓を。父の弓ではない。日子八井ひこやいの弓。声がでかい兄は、弓も引ける。稲飯命いなひのみことほどではないが。

 弓に手をかけた。——弦に指をかけた。

 ——震えた。

 手が。指が。弦をつかんだ指が震えている。

「兄上——」

「分かっている。——分かっているが、震える」

 日子八井ひこやいの手が震えている。——多芸志美美たぎしみみは兄だ。一緒に育った兄だ。肩に乗せてくれた兄だ。——その兄に向かって弓を引こうとして、手が震えている。

 引けない。——声はでかいが、弓は引けない。兄を射る弓は引けない。

日子八井ひこやい。——下がれ」

 俺が言った。

「下がれ。弓を降ろせ。——お前には引けない」

「引ける——」

「引けない。手が震えている。——聞こえる。弦の震えが。お前の指が弦を震わせている。引いても当たらない。当たらない矢を射てば——次は向こうが射てくる」

 日子八井ひこやいが——弓を降ろした。顔が白い。

 俺が前に出た。

 多芸志美美たぎしみみの前に。——手ぶらで。弓も剣も持たずに。

「兄上」

「…………」

「聞こえている。——兄上の息の音が」

「…………」

「冷たい。——昔はこんな音じゃなかった。笹の船を浮かべたときは温かかった。肩に乗せてくれたときは温かかった。——今は冷たい」

「…………」

「いつから冷たくなった」

「…………」

「父上の婚礼の日か」

 多芸志美美たぎしみみが——俺を見た。測る目で。

「……お前には聞こえるのか。——親父と同じで」

「半分くらいしか聞こえない。——しかし兄上の温度は分かる。冷たいか温かいかくらいは」

「…………」

「帰ってくれ。——兵を連れて帰ってくれ。話し合うなら兵なしで来い。飯を持って来い。——父上は飯で道を開いた。兵で開いたのではない」

 多芸志美美たぎしみみは——帰らなかった。

「帰れない」

「…………」

「帰れないんだ。——ここまで来て帰ったら、もう来られない。来なかった男に戻る。末席の男に戻る。——それは出来ない」

「兄上——」

「親父は——俺に何も言わなかった。最後まで。婚礼の日に末席に座らせて、何も言わなかった。功に見合った分だけ与えると言った。——功に見合った分。十八年船を作って、物見をして、最後尾を守って。——功に見合った分が末席か」

 声が——震えていた。冷たいまま。冷たいまま震えていた。

 測る目の奥に——別のものがあった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。——寂しさだった。

 俺の耳が——それを聞いた。兄の目の奥の寂しさを。

 父には聞こえなかった音。「息子の心は父には聞こえない」と父は書いた。——俺には聞こえる。兄の心が。弟だから。同じ父の子だから。

 しかし——聞こえても。

 聞こえても止められないことがある。

 多芸志美美たぎしみみが剣を抜いた。

「どけ。——お前を殺したくはない。どけ」

「どかない」

「どけと言っている」

「聞こえている。——聞こえた上で、どかない」

「…………」

「父上は聞こえたことを全部言えと言った。——聞こえている。兄上が寂しかったことが。末席が辛かったことが。父上が何も言わなかったことが。全部聞こえている」

「聞こえているなら——分かるだろう。俺がなぜここにいるか」

「分かる。——分かるが、どかない」

「…………」

「兄上が宮を取れば——母を追い出すことになる。母は大物主おおものぬしの娘だ。この土地の神の娘だ。追い出せば——この土地が怒る。足の裏が冷たくなる。父上が選んだ温かさが消える」

「足の裏の話をするな。——俺にはそんなものは聞こえない」

「聞こえなくても——ある。あるものはある」

 多芸志美美たぎしみみが——踏み込んだ。

 剣を振った。——俺に向かって。

 かわした。——かわせたのは、聞こえたからだ。剣が空を切る前に、兄の足が地面を蹴る音が聞こえた。蹴る方向で剣の軌道が分かった。——父が教えてくれたわけではない。体が勝手に聞いた。

 剣を——取った。

 兄の手から。振り下ろした腕を掴んで、ひねって、剣を奪った。——どうやったか分からない。体が動いた。聞こえた通りに体が動いた。

 多芸志美美たぎしみみの剣を持っていた。

 兄が——手ぶらで立っていた。

「……やるのか」

「…………」

「親父と同じだ。——聞こえる者は強い。聞こえない者は勝てない。俺は——親父にも勝てなかった。お前にも勝てない」

「兄上。——帰ってくれ」

「帰れない。——言っただろう」

「…………」

「やれ。——やるなら早くしろ。末席で死ぬのは嫌だ。せめて宮の前で死なせろ」

 剣を握っていた。兄の剣を。

 聞こえていた。兄の息の音。心の音。寂しさの音。——全部聞こえていた。

 聞こえた上で——

 斬った。

 多芸志美美たぎしみみが倒れた。宮の前で。——橿原宮かしはらのみやの門の前で。

 目が開いていた。測る目が。——最後まで何かを測っていた。何を測っていたのか。自分の位置か。弟の腕か。父の宮の大きさか。——分からない。

 母に似た顔だった。吾平津媛あひらつひめの顔。海人あまの顔。——父が最初に愛した女の顔が、宮の前の土に横たわっている。

 日子八井ひこやいが来た。弓を持って。——もう持っていても意味がないのに。

「……終わったのか」

「終わった」

「俺が——引くべきだった。兄だから。俺の方が年上だから」

「お前には引けなかった。——手が震えていた」

「…………」

「引けない者が引かなくていい。——引ける者が引く。それだけだ」

「……お前は震えなかったのか」

「震えた。——聞こえていたから。兄上の寂しさが。聞こえた上で斬った。——震えなかったのではない。震えたまま斬った」

 兄を——畝傍山うねびやまの麓に埋めた。

 父が植えた木のそばに。コノハナの木。花が少しずつ増えている木。——その下に。

 母が花を一輪折って、兄の上に置いた。

「……この子は——寂しかったのですね」

「聞こえていました」

「あなたの耳に」

「はい」

「聞こえていて——止められなかった」

「止められませんでした。——聞こえることと止められることは違います」

「…………」

「父上と——同じです。父上も全部聞こえていた。聞こえていても止められないことがあった。——俺も同じだった」

 母が泣いた。——音が増える泣き方で。花の音。風の音。全部の音が母の泣き声と一緒に鳴った。

 俺が——宮を継いだ。

 継ぎたくなかった。——しかし、日子八井ひこやいが「俺は声がでかいだけだ。聞こえる方がやれ」と言った。父の兄の五瀬命いつせのみことと同じ言葉で。

 聞こえる者が——やる。聞こえない者は声を出す。声がでかい者と聞こえる者が組む。——父と伯父がそうだったように。

 俺と日子八井ひこやいがそうなった。

 宮の前に立った。父が立った場所に。

 足の裏が——温かかった。変わらない。父が選んだ場所は変わらない。

 ただ——一つだけ冷たい場所がある。兄を埋めた場所。あの場所だけが——少しだけ冷たい。兄の寂しさが土に残っている。

 聞こえる。——全部。温かさも冷たさも。

 父は「ここにする」と言った。俺は——「ここにいる」と言う。父が選んだ場所に。父が残した宮に。——ここにいる。

 兄を斬った手で。震えた手で。——ここにいる。

〈第一話・了〉


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