恋しかったもの
船がリベルタを出港して、数時間後のこと。
「!」
音凪は寝室と反対側の扉を開けて、目を丸くした。
そしてしばらく動きを止めたあと、
「透真っ」
瞳をきらきらとさせて、透真の元へと向かった。
「どうしたんだ?」
「す、すごいよ……! 洗面所っ」
音凪は高鳴る胸の鼓動を抑えるかのように、胸の前で両手を握っている。
頬は僅かに紅潮し、いつになく興奮していた。
「ネナ、うれしそう〜」
ソファに座っていたフィンが楽しそうに笑った。
ぴょんっ!
フィンはソファから降りて、音凪と透真の元へ駆け寄った。
「一緒に見に行くか」
「うん!」
透真はフィンを抱き上げ、洗面所に向かった。
音凪もそわそわと体を揺らしながら、二人の後を追った。
「? これなーに?」
フィンは首を傾げて、扉のすぐ目の前にある台を指差した。
「これは洗面台だよっ」
「顔を洗うところな」
収納と水受け、蛇口が一体となっている台に、三つに分割された厚みのある鏡。
そこにあったのは現代日本ではよく見かける、
三面鏡に収納が付いた洗面化粧台だった。
「えっ?! おかおあらうところ?」
フィンは大きな目をまん丸に見開いて、洗面化粧台をまじまじと見つめた。
「おみずいれるところないよ?」
フィンはこれまで自分が使っていた洗面道具の桶がないことを指摘した。
透真はフィンを抱き上げたまま、部屋と洗面所の間にある段差を跨いで中に入った。
水栓の横にある突起に右手を伸ばして、
カチッ。
「ここに水を溜めるんだ」
きゅっ、きゅっ。ジャアー
「えっ?! えっ?! どーしてぇ?!」
フィンは目を大きく見開いて、突起と水受けを交互に何度も見た。
きゅっ、きゅっ。
「ここおしたら、ここかくれた!」
「引くとまた出てくるんだ」
水受けの真ん中にある排水部分を指差すフィンと、突起を引っ張って溜めた水を流す透真。
「栓のスイッチだったんだ……」
後ろでぼそっと呟いた音凪に、透真は僅かに口元を緩めた。
「音凪、トイレと浴室は?」
「あっ、まだ見てない……」
そう返した音凪は数秒口を閉ざして、
はっ!
「もしかして……!」
ゆっくりと横を向いた。
洗面化粧台のすぐ横。
そこにある戸の引き手に、音凪はそっと手を掛けた。
カラカラ……。
「!! と、透真……」
「うん」
「普通の……トイレ……!」
音凪の目に飛び込んできたのは、白い陶器で作られた現代式のトイレだった。
ぱかっ。
音凪が便器の蓋を持ち上げた。
「普通のトイレ……!」
感動のあまり語彙力を失ってしまった音凪は、食い入るように便器を見つめた。
「トイレ? これトイレ?」
フィンはトイレを指差し、不思議そうにしている。
「ああ、そうだ」
「へ〜! つるつるで、あながおっきい!」
「確かにフィンには大きいな」
便器を熱い眼差しで見ていた音凪が小さく肩を揺らして振り返った。
フィンのお尻と便座、もう一度フィンのお尻……と順番に視線を移した。
「落ちちゃいそうだね……」
「しばらくは支えた方が良さそうだ」
「うん」
音凪はフィンのお尻から顔へ視線を流した。
「フィン。トイレに行きたくなったら、私か透真に声掛けてね」
「わかった!」
元気よく返事をしたフィンに、音凪はにこっと微笑んだ。
「あとは浴室だな」
透真が後ろを振り返った。
トイレと反対側の奥。
そこには、白い縁に白濁色のパネルが張られた引き違い戸があった。
「よくしつ〜?」
「風呂がある部屋のことだ。フィンの家にもあっただろ?」
フィンはモリスと暮らしていた家の風呂場を思い浮かべた。
「おふろ!」
フィンは目をぱっと輝かせた。
旅先で過ごした場所はどこも浴槽がなく、湯船に浸かることができなかった。
ラウハの森にいた頃、少なくとも三日に一回は入浴していた暮らしを送っていたフィンにしてみれば、喜ばずにはいられなかったのだろう。
「ふふっ、お風呂だよ〜」
しかし、そんなフィン以上に喜んでいるのは音凪だ。
音凪は緩々に顔を溶かして、軽い足取りで浴室の戸に近づいた。
「ふふっ」
そしてそのまま引き手に指先を引っ掛けて、横に引いた。
カラカラ。
「……」
ぴたっと、音凪は動きを止めた。
「うわぁ〜!」
透真に抱き上げられたまま、音凪の後ろから覗き込むフィンが感嘆の声を上げた。
木材でできた浴槽に、角の丸い大きな窓。壁と天井は吸い込まれそうなほど深い緑に、一面だけ白木調のアクセントを入れている。
アクセントの反対側は、白の漆喰調の低い壁があった。
天板がカウンターになっていて、ゆとりのある空間を演出していた。
「もりのなかにうみがある!」
フィンはきらきらと目を輝かせて、窓の向こうに見える海を眺めた。
透真は忍ぶように音凪の表情を確認した。
音凪は小さな口を僅かに開けて、
「きれい……」
ぽつりと呟いた。
「うん」
透真はうれしそうに目元を緩めた。
「いい香りがする……」
「檜風呂みたいだな」
「檜風呂?」
「檜で作った浴槽があるんだよ。檜がこの世界にもあるかは分からないけど、似たような樹木で作ったんじゃないか?」
透真はフィンを下ろして、そっと浴槽の縁を撫でた。
「木で浴槽ってできるんだね。
この壁も木だよ。……檜かな?」
「これは白樺っぽい」
「白樺……」
音凪は白樺風の壁をじっと見つめた。
「かわいいね」
「……ん?」
「白の木目って、不思議」
「これなんだろ〜?」
透真と音凪は振り返った。
二人の目に映ったのは、浴槽横の壁を首を傾げながら見ているフィンの姿。
音凪は近づいて、フィンの見つめる先に目を凝らした。
「……ボタン?」
そこには、壁と同じ深緑色をした丸いスイッチが複数並んでいた。
透真も側に寄ってスイッチに顔を近づけると、目を凝らして観察をし始めた。
「黒で文字彫ってないか?」
「あっ、ほんとだ。えっと……」
いくつかあるうちの一つをじっと見つめ、音凪は文字を読み上げた。
「しゃ、わー……シャワー……!?」
音凪は目を大きく見開いて、後ろを振り返った。
「透真っ、シャワーがあるよ!」
「この世界にもあったんだな」
「ねっ」
音凪は満面の笑みで頷いて、またスイッチを眺めはじめた。
「シャンプーとリンスも……?!
これは……飲み物? わあ……」
幼い子どものようにはしゃぐ音凪。
透真はその様子を優しい眼差しで見つめた。
くいっ。
控えめに、フィンが透真の服の裾を引っ張った。
「どうした?」
「しゃわーってなに〜?」
「ああ、シャワーは……」
透真は言いかけて口を閉ざした。
「夜の楽しみにとっておきな」
わしゃわしゃっ。
「!」
透真がフィンの頭を掻き混ぜると、フィンはうれしそうに目を瞑った。
「よる、たのしみ〜!」
「ふふっ、楽しみだね。ふふ」
その後も三人はしばらくの間、浴室に居続けた。
夜を待ち遠しそうにしている音凪とフィン。
二人の笑顔に、透真も絶えず微笑んでいた。
〜おまけ〜
「透真っ! お風呂丸見えだよ!」
(やっぱり説明聞いてなかったか……)
乗船場の受付時に説明があったこと、
乗船前、外から見た時も中は見えていなかったことを透真から聞いて、
音凪は僅かに頬を赤らめた。




