第26話①「前よりわからなくなった」
レジスタンス本部。
カイの部屋。
ここ一か月ほど、AIから目立った攻撃はない。
その間、カイはひたすら本を読んでいた。
ユナが残した、四百冊もの哲学書。
その中で、彼女がわざわざ「必読!」と書き残していた本が十一冊ある。
そして今日、ようやく十冊目まで読み終えた。
机の上には、その十冊が積み上がっている。
カイは一番上の本を手に取った。
ドローンモードのピコが、ふわふわと浮かびながら覗き込む。
「プラトン。『ソクラテスの弁明』」
ページをぱらぱらとめくる。
「知らないことより、知らないのに知ってるつもりになる方が危ない」
「いわゆる“無知の知”ですね」
カイは苦笑した。
「真実を追いかけてる人間には、耳が痛い話だよ」
一冊目を置き、二冊目を取る。
「モンテーニュ。『随想録』」
読み込んだ跡の残る表紙を眺める。
「人間は揺れる。昨日と今日で、考えてることが変わる」
「つまり?」
「世界だけじゃない。世界を見てる自分自身も、信用しすぎるなってことだ」
三冊目。
「ヒューム。『人間知性研究』」
今度は露骨に眉をひそめる。
「原因と結果だと思ってるものも、本当につながってるとは限らない。何度も同じことが起きたから、“次もそうなる”って思ってるだけかもしれない」
「経験則ですね」
「ああ。証拠と、思い込みを混同するなってことだ」
四冊目。
「カント。『プロレゴメナ』」
カイの顔がさらに険しくなった。
「これは本当に苦労した」
「四日ほど同じ章を――」
「それを言うな」
ピコの報告を即座に遮る。
「俺たちは、世界そのものを見てるわけじゃない。人間が認識できる形になった世界を見てる」
「ユナが余白に、“ここで分からなくなったら正常”と書いていましたね」
「ああ。さすがだよな……俺が詰まる場所まで先回りしてやがる」
五冊目。
「ニーチェ。『道徳の系譜』」
指先で表紙を軽く叩く。
「正義も善悪も、最初からそこにあるとは限らない」
カイの目つきが、探究者のそれに変わる。
「誰が作ったのか。なぜ作ったのか。誰にとって都合がいいのか。そこまで疑えってことだ」
六冊目。
「キルケゴール。『死に至る病』」
カイの声が少し低くなる。
「自己とは何か」
「自己自身との関係、ですね」
「ああ。自分から逃げ続けることも、一つの絶望なんだとさ」
七冊目。
「サルトル。『実存主義とは何か』」
今度は表情が少し緩む。
「これは分かりやすかった」
「珍しい感想ですね」
「どういう意味だ」
本を持ち上げる。
「人間には、最初から完成した設計図なんてない。何を選んだかで、自分が何者なのかが決まっていく」
八冊目。
「カミュ。『シーシュポスの神話』」
カイは少し笑った。
「世界に意味があるとは限らない。それでも生きる」
「かなりカイなりの解釈が入っていますね」
「いいだろ。意味がないなら、自分で作ればいい」
九冊目。
「ウィトゲンシュタイン。『哲学探究』」
本を持った途端、露骨に嫌そうな顔をする。
「これは嫌いだ」
「三回読み直したページが――」
「それも言うな」
ページを開く。
「言葉は世界を説明するだけじゃない。俺たちは言葉を使って、世界を切り分けてる。だから、使う言葉が変われば見える世界も変わる」
そして十冊目。
「メルロ=ポンティ。『知覚の現象学』」
カイは本を置き、自分の手を見つめた。
「人間は頭だけで世界を理解してるんじゃない」
ゆっくりと手を握る。
「見る。聞く。触れる。歩く。身体そのものが、世界を認識する方法なんだ」
そこまで言って、カイは十冊を机の上に並べた。
プラトン。
モンテーニュ。
ヒューム。
カント。
ニーチェ。
キルケゴール。
サルトル。
カミュ。
ウィトゲンシュタイン。
メルロ=ポンティ。
十人が十人とも、違う方向から世界を見ている。
カイはそれを眺め、息を吐いた。
「……十冊も読んだのに」
「はい」
「前より、何が正しいのか分からなくなった」
ピコがわずかに機体を傾ける。
「それは、賢くなったと言えるのでしょうか」
「さあな」
カイは本棚へ目を向ける。
残り、一冊。
「でも、一つだけ分かった」
「何でしょう?」
「俺はずっと、“真実”を探してるつもりだった」
本棚へ手を伸ばす。
「でも、自分が何を“真実だと思う人間なのか”は、ほとんど考えてなかった」
十一冊目を引き抜く。
デカルト。
『方法序説』。
表紙を見つめながら、カイは呟いた。
「たぶんユナは、答えを教えたいんじゃない」
「では、何を?」
「俺の中にある“答えの作り方”を、壊そうとしてるんだ」
カイは『方法序説』を開いた。
最後の一冊。
疑うことから思考を始めた男の本が、最後に残っていた。
「……長かったが、あと一冊か」
「デカルトですね」
「座標で世界を切り分けた男か」
ページをめくりながら、以前ユナと交わした会話を思い出す。
思わず笑いが漏れた。
「……『プロレゴメナ』や『哲学探究』より難しくないことを祈る」
そのとき、端末が鳴った。
画面に表示された名前は、サクラ。
カイが通信を開く。
「どうした?」
『緊急でミーティングをしたいの。すぐ来てもらえる?』
声色がいつもと違う。
カイは開いたばかりの『方法序説』を閉じた。
「わかった。すぐ行く」
立ち上がり、机を離れる。
十一冊目は、まだ一ページも読めていない。
真実を疑うための本だけを部屋に残して――
カイは、新たな真実が待つ場所へ向かった。
※作者の活動報告に各話のコメントを書いています。
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