第25話①「海への約束」
中煎り、深煎り寄り、深煎り――。
三種類のコーヒーが、小さなショットグラスへ順番に注がれていく。
とく、とく、とく……。
立ち上る香りも、それぞれ少しずつ違っていた。
ユカが興味津々でグラスをのぞき込む。
「おおー……なんか実験みたい」
「コーヒーは豆の種類や焙煎だけでなく、挽き方、抽出時間、湯温によっても味が大きく変化します」
ピコが三つのグラスを指し示す。
ユカは目を丸くした。
「うわぁ……組み合わせ、無限にあるじゃん」
隣でソウタも苦笑する。
「ほんと底なし沼だね……」
「はい。豆や焙煎だけで終わる世界ではありません」
「怖っ」
ユカが思わず身を引く。
「ただし今回は、“焙煎による違い”を体感することが目的です。そのため挽き方は一般的な細挽き。抽出時間と温度も、すべて統一してあります」
「なるほど」
ユカは納得したように頷き――ふと真顔になった。
「挽き方とかまでやり始めると、完全にストーリーの尺が足りなくなるもんね!」
ソウタが思わず笑う。
「あはは……ユカちゃん、何気にメタいこと言ってるよ……」
「賢明な判断です」
今度はソウタがピコを見る。
「そこ肯定するんだ?」
ピコは何事もなかったように三つのグラスを並べた。
「では――飲み比べてください」
ユカとソウタは顔を見合わせる。
先にユカがグラスへ手を伸ばした。
「これが……私たちが焙煎したコーヒー……」
ソウタも自分のグラスを持ち上げる。
「なんか、ちょっと感動するね」
まずは中煎り。
ユカが恐る恐る口へ運ぶ。
ごくり。
「……」
次の瞬間。
「にがっ!!」
盛大に顔をしかめた。
「なにこれぇ!? みんな、こんなの平然と飲んでるの!?」
その顔を見て、ソウタが笑う。
「あはは……最初はそうなるよね」
ソウタもひと口飲んでみる。
少し口の中で転がしてから、考えるように頷いた。
「うん、苦い……でも、なんか香ばしい」
ユカが信じられないものを見るような顔をする。
「そんなのわかるの?」
「ユカはお子ちゃまですからね」
ピコの一言に、ユカが即座に振り返る。
「そんなことないもん!」
むきになったユカは、もう一度グラスを持つ。
ぐいっ。
「にがっ!! やっぱ無理ぃ!!」
再び撃沈するユカを見て、ソウタが吹き出した。
「では、まずは“味”ではなく、香りを確認してください」
「香り?」
ユカがグラスを持ち直す。
「コーヒーは、香りの情報量が非常に多い飲み物です」
半信半疑のまま、ユカが中煎りのグラスへ顔を近づける。
すぅ……。
「あっ……なんか、甘い匂いする」
それを聞いたソウタも、自分のグラスへ鼻を近づけた。
「あ、本当だ。ちょっとフルーツっぽいかも」
次は深煎り寄り。
ユカが目を閉じて香りを確かめる。
「こっちは……焼きたてのパンみたい」
ソウタも続けて香りを嗅ぐ。
「ナッツっぽい感じもあるね」
そして深煎り。
今度はユカが鼻を近づけた途端、目を見開いた。
「うわっ。これ、煙みたい!」
ソウタも試して、納得したように頷く。
「ほんとだ……焚き火みたいな匂い」
「それが、焙煎度による香りの違いです」
「へぇぇぇ……」
ユカが感心したように三つのグラスを見渡す。
さっきまで“苦いだけの黒い飲み物”だったものが、少し違って見えてくる。
湯気の向こうで、それぞれが違う表情をしているようだった。
***
少し時間が経ったころ、ピコがユカへ声をかけた。
「ユカ、もう一度飲んでみてください」
「えっ?」
ユカの顔が露骨に曇る。
グラスを持ったものの、口へ運ぶ手が止まった。
その様子を見て、ソウタが笑う。
「あはは、完全にトラウマになってるね」
「い、行く……!」
ユカは覚悟を決めて、ごくり。
「あれ?」
驚いたようにグラスを見る。
もう一度飲む。
「……あっ! さっきより苦くない!」
「温度が下がると、味を感じ取りやすくなるんです」
「ほんとだ!」
すっかり調子を取り戻したユカは、今度は中煎りを飲む。
「これ、ちょっと酸っぱい!」
続いて深煎り寄り。
「こっちは苦いけど……なんか甘い!」
そして深煎り。
ユカはしばらく考え込み、ぽつりと言った。
「これ……カイっぽい味がする」
隣にいたソウタが思わず振り向く。
「味の例え方それでいいの!?」
「概ね合っています」
ピコの返答に、ソウタの目がさらに丸くなる。
「ええっ、合ってるんだ!?」
***
ユカは湯気の立つショットグラスをじっと見比べていた。
中煎り。
深煎り寄り。
深煎り。
同じ豆から作ったとは思えないほど、色も香りも違っている。
ユカが感心したようにつぶやく。
「……ほんと、すごいね。同じ豆なのに、焙煎だけでこんな変わるんだ」
ソウタも三つのグラスを見渡す。
「ね。別の飲み物みたい」
ユカは再び、深煎り寄りのグラスを手に取った。
こくっ。
首をかしげる。
「……これ、なんかちょっと“しょっぱい感じ”しない?」
ソウタが聞き返す。
「しょっぱい?」
「うん。塩っていうか……なんか、こう……海っぽい感じ」
「それは普通にあります」
ピコの答えに、今度はユカが驚く。
「普通なんだ!?」
「正確には塩味ではありません。焙煎や成分変化によって生じる、ミネラル由来の風味です」
「へぇぇ……」
ユカはもう一度、こくりと飲む。
「なんか不思議だね。コーヒーなのに、ほんと海みたい」
ソウタもグラスへ視線を落とした。
「海かあ……」
ユカはグラスを両手で包み、窓の外へ目を向ける。
午後の木漏れ日。
風に揺れる葉。
穏やかなカフェ。
「なんか……景色が見える感じ」
その言葉に、ソウタがユカを見る。
「景色……?」
ユカはしばらく窓の向こうを眺めてから、小さく笑った。
「これ、“夕方の海”っぽい」
その瞬間、ソウタの表情がわずかに変わった。
ユカがそれに気づく。
「……ソウタ、どうしたの?」
「あ、いや……」
ソウタは困ったように笑いながら、グラスへ視線を落とした。
「海って、どんな感じなんだろうなって」
「え?」
ユカが振り向く。
ソウタは少し言いにくそうに続けた。
「僕……海、行ったことないんだ」
「ええっ!?」
ユカだけでなく、ピコまで声を上げた。
ユカが身を乗り出す。
「うそ!? 一回も!?」
「う、うん……」
ソウタは少し照れくさそうに笑った。
「なんか、縁がなくてさ……」
「もったいないよ!」
ユカが勢いよく立ち上がり、両腕をいっぱいに広げる。
「海、めちゃくちゃ広いんだから! 夕方になると空がオレンジ色になってさ、波がキラキラ光るの!」
ソウタはユカの身振りを見ながら、静かに聞いている。
「へぇ……」
ユカはさらに身振りを大きくする。
「あと、風! 潮風がすっごい気持ちいい!」
ソウタは何も言わず、その話を聞いていた。
その顔はまるで、知らない世界の話を聞く子どものようだった。
そんなソウタを見て、ユカの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあさ!」
「え?」
ソウタが顔を上げる。
ユカは満面の笑みで言った。
「今度、一緒に行こうよ!」
「海に?」
「うん! みんなで海!」
ユカはさらに身を乗り出す。
「本物の“海風の味”、確かめに行こう!」
ソウタは目を丸くし、それから少し照れたように笑った。
「……うん。それ、楽しそうだね」
その横で、ピコのセンサーが小さく点滅する。
――外見年齢は十七から十八歳程度。
それにもかかわらず、一度も海へ行ったことがない。
閉鎖区域育ち?
いや、それにしては――。
ピコの内部で違和感が膨らみかけた、そのとき。
「絶対だよ! 約束ね!」
ユカが笑顔で小指を差し出した。
「あっ……」
ソウタは突然のことに戸惑いながらも、自分の小指を絡める。
「あはは……うん、約束」
ぎこちない指切り。
窓の外では、午後の光が柔らかく揺れていた。
※作者の活動報告に各話のコメントを書いています。
https://syosetu.com/userblog/list/




