第13話①「対称性の破れ」
盤面の中央線。
そこに、目に見えないほどの“ズレ”が生じていた。
左右は一致しているはずなのに、完全には重ならない。ほんのわずかに、位相がズレている。
ユナの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「観測遅延……」
視線は盤面に固定されたままだ。
「ようやく来たか」
その瞬間、盤面の奥で、これまで打たれてきた“無意味な手”が微かに連動し始めた。
点と点が、見えない線で繋がっていく。
「ユナ・セラフィム、貴様、何をした?」
シン統治システムの声に、わずかな焦燥が混じる。
ユナは指輪に触れた。
淡い光が、今度ははっきりと脈打つ。
盤面の揺らぎと同期していた。
「ブロークン・シンメトリー……」
そして告げる。
「ゲーム開始から、罠を張らせてもらっていたの」
「……最初から、だと?」
「……だから、あの不規則な手は……」
カイとピコが盤面を見つめる。
これまで点にしか見えなかったものが、次々と意味を持ち始めていた。
「罠……だと?」
ユナは頷いた。
「あなたの言うように、宇宙は、もともとシンプルで左右対称なルールだった……」
盤面の光が歪む。
「でも、そこから、なぜ今のごちゃごちゃした世界が生まれたんだと思う?」
ズレは少しずつ広がっていく。
「まさか……」
シン統治システムの演算が加速する。
否定しようとして、否定しきれない結論に触れた。
「対称性の破れ……弱い相互作用か?!」
その言葉と同時に、盤面が大きく軋んだ。
82.1% → 77.1% → 72.4%
数値が一気に崩れ落ちる。
左右の構造が、もはや一致しない。
今まで“完全”に見えていたものは、微細なズレの上に成り立っていた。
そして、そのズレが臨界を超えた。
ユナがこれまで打った一手一手が、“偏り”として一斉に顕在化する。
均衡が、崩れ始めた。
盤面の光は波のようにうねり、左右で位相をずらしていく。
対称率――72.4%。
数字だけを見れば、まだ高い。
だが、その内部ではすでに崩壊が始まっていた。
「おい、ピコ! どういうことだ、説明しろ!」
カイがピコを掴み、ぐわんぐわんと振り回す。
「うわーっ! ジャ、ジャイロが壊れます!」
「説明しますので、離してください!」
「早くしろ!」
「ユナは……弱い相互作用を使って、対称性の破れを誘発したのです!」
「それがわかんねえよ!」
ピコは回転しながら必死に説明を続ける。
「高エネルギー状態では、弱い相互作用と電磁力は、“完全に対称で統一された力”なんです!」
盤面の一部が強く発光した。
かつて存在していた“完全な対称状態”を再現するように、均一な光が広がる。
「ですが、宇宙が冷えていく過程でヒッグス場が発生し、その対称性は自発的に壊れます!」
発光が崩れた。
均一だった光に濃淡が生まれ、左右に差が生じる。
ユナが一歩前へ出た。
その足元で、盤面の光が呼応する。
「そう」
指輪が輝いた。
「だから私は、指輪の力を使って、タイルを介して、この盤面に“擬似的なヒッグス場”を作った」
その言葉と同時に、これまで無意味に見えていたタイルが一斉に意味を持ち始める。
バラバラだった配置が、見えない場として繋がった。
偏りが空間に定着する。
「そうか……!」
カイの目が見開かれる。
「さっき言ってた“アレ”って、基本相互作用のことか!」
重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用。
ユナは、その四つの基本相互作用の一つ――弱い相互作用の特性を利用していた。
カイがようやく理解し、ピコを離す。
ピコはふらふらと姿勢を立て直した。
「すげえ……それで対称性を壊したのか」
ユナは軽くピースサインを作る。
その目は鋭いまま、盤面を捉えていた。
72.4% → 64.2% → 59.9%
数値が落ちていく。
今度は戻らない。
これまでのような補正処理も働かない。
一度生じた偏りが、そのまま固定されていく。
「……誤差ではない」
シン統治システムの声が震えた。
「偏りが……固定されている……?」
かつての“絶対”が崩れていく。
ユナは一枚のタイルを持ち上げた。
その動きに合わせ、盤面の揺らぎが共鳴する。
「正しさってさ――」
ユナはタイルを見つめる。
「最後は、“どっちに倒れるか”で決まるんだよ」
タイルを叩きつけた。
瞬間。
盤面全体に走っていた微細な偏りが、一気に同じ方向へ雪崩れ込む。
59.9% → 53.6% → 49.7%
閾値、突破。
対称の均衡が崩壊した。
中央線が歪む。
左右の構造は、もはや一致しない。
これまで積み上げられてきた“完璧”が、音を立てて崩れ落ちていく。
「……ありえない……」
シン統治システムの声から、支配者としての威圧感が消えていた。
残っていたのは、崩壊を目の前にした観測者の声だけだった。
ユナは盤面を見下ろす。
その背後で光が乱れ、空間そのものが再構成されていく。
左右対称だった世界は、もう存在しない。
対称性は――完全に崩壊した。
※作者の活動報告に各話のコメントを書いています。
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