第7話③「初めての勝利!」
しばらくして。
あれだけ山のように並んでいたアサリ料理が、きれいに消えていた。
「ふう〜……」
ユナは満腹そうに背もたれへ寄りかかり、幸せそうにお腹をさする。
「ごちそうさまー」
テーブルを見回したピコが、呆れたように呟いた。
「ほとんど、ユナが食べてしまいましたね」
「すげえな」
カイも感心したように料理の残骸を眺める。
ユナは満面の笑みを浮かべた。
「まんぞくー♪」
そして、
ごろん。
何の遠慮もなく、カイの膝の上へ寝転がった。
「おい、こら!」
「ねえ、カイ〜」
ユナは目を閉じ、口をちょこんとすぼめる。
どう見ても、キス待ちだった。
「まったく……」
カイは苦笑しながら、そっと顔を近づける。
軽くキスをする。
「んふっふっー♪」
ユナは満足そうに笑った。
その直後。
「すう……」
そのまま眠ってしまった。
「……」
カイは膝の上で寝息を立て始めたユナを見下ろす。
「こいつ自由すぎるだろ。朝からカフェの仕事もしないで、雪合戦して、メシ食っただけだぞ」
呆れながら、ため息をつく。
するとピコが、何気なく口を挟んだ。
「まあまあ、昨日の夜も任務とかありましたから」
カイの表情が変わった。
「任務?」
ゆっくりとピコを見る。
「任務って何だ?」
「……あっ」
ピコの動きが止まった。
「あ、いえいえ! 言い間違いです! カフェの仕事のことです!」
「ふーん……」
カイは一応納得したように頷く。
しかし、どこか引っかかる。
(……なんだ?)
胸の奥に、言葉にできない違和感が残った。
***
ユナをソファへ運び、毛布をかける。
その後、カイとピコはキッチンに立ち、食器を洗い始めた。
窓の外では、雪がまだ降り続いている。
「今日はずっとこんな感じかな」
「お客さん、来る気配ないですね」
水道から流れる水の音が、店内に響いていた。
しばらくして――。
「ん……」
ソファの上で、ユナが小さく身を動かした。
「んん〜っ」
大きく伸びをして、寝ぼけた目で周囲を見回す。
「おっ、ようやくお目覚めですか?」
ピコが声をかける。
そこへカイも歩み寄った。
「おはよう、お姫さま」
すると――
ぎゅっ。
ユナが突然、カイに抱きついた。
「おいおい、どうした?」
「愛情のチャージ♡」
カイはきょとんとした顔をした。
やがて、ふっと笑う。
そして、ユナの頭を優しく撫でた。
ピコはその様子を眺めながら、心の中で呟く。
(やれやれ……完全に飼い主に甘える猫ですねえ)
二人はそのまま、しばらく抱き合っていた。
***
気づけば、外は夕方になっていた。
雪は相変わらず降り続いている。
そして――。
今日、店には一度も客が来ていなかった。
「ヒマねー」
ユナは椅子の上でだらんと伸びている。
「今日はもう、店を閉めてもいいかもしれませんね」
ピコが提案する。
カイは窓の外を眺めた。
「どうする? 映画でも見に行くか?」
「それもいいけど……この雪じゃあねえ」
ユナも外を見る。
「そうだな……」
カイが頷く。
するとユナが、ぱっと顔を上げた。
「あ、そうだ!」
「?」
「こういう時こそ――ボードゲームでしょ!」
その顔は、また何か面白いことを思いついた子どものように輝いていた。
***
机の上に、六角形の駒が並べられていく。
白と黒。
虫を模した小さな駒たちが、少しずつ盤面を形作っていく。
「じゃあ……今日は《ハイヴ》やろっか」
「“今日は”じゃなくて、“今日も”です。最近、これ一択ですよ」
「えー? そんなにやってたっけ?」
ユナは悪びれもせず首を傾げる。
カイが盤面を覗き込んだ。
「そんなに好きなのか、これ」
ユナは女王蜂の駒をそっと手に取った。
触れる指先は、どこか慎重で優しい。
「好きなものは、そのときで変わるけど……今は、これが一番好きかな」
「どういうところが?」
「“読む”のが楽しいの。このゲーム」
ユナは盤面を見つめる。
「相手がね、“何を守りたいか”が、全部出るんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ユナの意識が過去へ引き戻された。
***
幼いユナの目の前に、母・ユリが座っている。
盤の向こうで、ユリが微笑んでいた。
「ユナ。ハイヴはね、読むのが楽しいの。相手の考えが、全部見えるから」
「じゃあ……私の考えも?」
ユリは少し驚いたような顔をした。
そして、柔らかく笑った。
「そうよ。ユナの考えも、私の考えも、全部」
その笑顔は、あまりにも温かかった。
***
ユナは、かすかに肩を震わせた。
そして、盤面を見下ろす。
「……人の考えを全部読めちゃうなんてさ」
小さく息を吐く。
「やっぱり、ボードゲームってすごいよ」
店内を柔らかな光が包む。
(ママ……)
ほんの少しだけ、ユナの表情に影が落ちた。
その横で、カイがぼそりと呟く。
「……また俺がボコられる未来しか見えないんだが」
ユナはくすっと笑った。
白い女王蜂の駒を指で軽く弾く。
「そんなことないよ。カイもちゃんと上達してるし」
「ほんとか?」
「万が一の、マグレの奇跡が起きるかもしれないでしょ」
「それ、励ましてるのか?」
ピコが淡々と告げる。
「ハイヴは運要素が少なく、統計的に見ても、ユナの勝率は異常値です」
「はいはい……」
ゲームが始まった。
クモが絡み、アリが潜り、カブトムシが相手の駒を押し込んでいく。
盤面は少しずつ複雑になっていった。
流れは、いつも通りだった。
主導権を握っているのはユナ。
カイの女王蜂は、すでに半分以上を包囲されている。
「ほら。もう逃げ場、二択しかないよ」
「……だよな」
カイは盤面を見つめた。
しかし――。
彼が見ていたのは、盤面だけではなかった。
ユナの指の動き。
視線の癖。
駒を置くときの手つき。
そして、ほんの少し迷ったときの呼吸。
(……ああ、そうか)
その瞬間、父・ダイの言葉が脳裏をよぎった。
(“盤面じゃない。相手を読め”……か)
***
子どものころ。
カイは父・ダイと将棋を指していた。
毎晩飲み歩く、ちゃらんぽらんな父。
掴みどころのない男だったが、勝負事になると滅法強かった。
学校では負け知らずだったカイも、父との勝負ではいつも苦戦していた。
王は追い詰められている。
ダイは取った駒を、わざとらしくジャラジャラ鳴らしていた。
「本質だ。本質を見極めるのだ、ルーク」
「ああん? ボケてんのか、親父。俺はカイだぞ」
「大昔の映画の真似だ。さすがに分からんか」
「知るか!」
ダイは、にやにやと笑う。
「……こういうとき、見るべきは盤面じゃない」
「じゃあ、どこ見るんだよ。天でも仰げってのか」
「うまいこと言うな」
「褒められても嬉しくねえよ!」
ダイは駒を一つ動かした。
「相手の思考と性格だ。盤面は、その結果に過ぎない」
カイは、はっとした。
「……珍しく、まともなこと言うじゃねえか」
「私はいつもまともだぞ」
それからカイは、盤の“裏”を見るようになった。
形勢は盛り返した。
――だが、結局は負けた。
それでも、不思議と清々しさだけが残っていた。
***
(そうだ)
カイは現在の盤面へ意識を戻す。
(今の状況に囚われるな)
(ユナの“打ち手”じゃない)
(ユナそのものを読む)
カイは、さっきの雪合戦を思い出した。
(ユナは――いつも勝ち気だ)
(絶対に一歩も引かない)
(そこから読み取れるのは……)
カイは一枚の駒を滑り込ませた。
「……え?」
ユナの表情が変わった。
包囲が止まる。
「ちょっと待って。それ、そっち守る意味ないでしょ?」
「“今”はな」
カイはさらに一手。
そして、もう一手。
いつの間にか――。
囲まれているのは、ユナの女王蜂だった。
「……あれ?」
ユナの指が止まる。
盤面を見つめる目が、ほんの一瞬だけ迷った。
「……詰み、ですね」
ピコが判定する。
ユナは盤面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……負けた」
「え?」
カイが目を丸くする。
ユナは顔を上げた。
「完全に読まれてた。私が“攻め続ける”って前提を」
そして――にやっと笑った。
「すごいじゃん。初勝利、おめでとう」
「……勝った、のか?」
「ええ。歴史的瞬間です」
カイの顔が一気に輝く。
「やったー!! ついに……ユナにボードゲームで勝った!!!」
子どものように喜ぶカイ。
(……しかし、あのくそ親父の言葉がヒントになったのはシャクだな)
その横で、ピコが淡々と告げた。
「なお、これまでの連敗数は68回です」
「言うな!」
ユナはそんなカイを、優しい目で見つめていた。
そして、駒を一つずつ片付けていく。
「ねえ、カイ」
「ん?」
ユナは顔を上げた。
「次はさ……」
にっこり笑う。
「本気で潰しにいくから」
その笑顔は、いつもより少しだけ楽しそうだった。




