最終話⑦「我思う、ゆえに君あり」
データの濁流が、カイの身体を飲み込んでいく。
真実とフェイク。
現実と仮想。
記憶と幻。
あらゆる境界が溶け合い、世界は混沌そのものとなっていた。
カイの輪郭さえ、少しずつ光の中へ溶けていく。
自分がどこにいるのか。
自分が誰なのか。
その感覚すら、曖昧になっていった。
(もう……何もわからない……)
濁流の中でもがく。
(何が真実で……何がフェイクなのか……)
だが、流れは容赦なくカイの身体をさらっていく。
(ユナ……すまない)
カイは目を閉じた。
(俺は結局、真実には辿り着けなかった)
身体から力が抜ける。
抵抗することをやめ、流れへ身を委ねた――そのとき。
《……ほんとにそうかな?》
「……!」
聞き慣れた声が、頭の中に響いた。
(ユナ……!?)
少し笑いを含んだ声が返ってくる。
《さーて、カイ君は、本当に限界まで頑張ったのかなぁ〜?》
からかうような口調。
カイは思わず叫んだ。
「ふざけるな!」
声が濁流の中へ響く。
「AIからシステムを解放した! みんなも逃がした!」
さらに叫ぶ。
「俺にできることは、全部やった!」
やがて、優しい声が返ってくる。
《うん。そうだよね》
(……?)
《だからこそ、今だったら見えるものがあるんじゃない?》
その言葉に、カイの思考が止まる。
(……認知の更新)
ユナが嬉しそうに笑う。
《そうそう。真実ってさ、そんな大げさなものじゃなくて――》
少し楽しそうに続ける。
《案外、すぐ近くに転がってたりするんじゃないかな》
(近くって……どこだよ)
《タンスの裏とか、ベッドの下とか?》
(んなわけねーだろ)
《いやあ、わかんないよ〜》
カイは思わず吹き出した。
(……まったく)
呆れながらも、自然と笑みがこぼれる。
その笑顔とともに、これまで歩んできた旅が胸によみがえった。
アラン。
サクラ。
リサ。
ジロウ。
トモ。
セラ博士。
ピコ。
そして――ユカ。
出会って。
ぶつかって。
悩んで。
問い続けて。
何度も答えを変えてきた。
その一つひとつが、少しずつカイの世界を広げてくれた。
(そうか……)
カイは目を開く。
(真実は、外側にあるものじゃない)
ゆっくりと手を伸ばす。
(人の内側にある)
これまで学んだこと、経験したことが、一つの形を取り始める。
デカルトの言葉。
《我思う、故に我あり》
どれほど世界を疑っても、自分が考えているという事実だけは消せない。
自分という、確かな一点。
そして、AIとの戦いで学んだ《認知の更新》。
その一点を絶対のものとして固定せず、何度でも世界の見方を書き換えていくこと。
では――
その自分から、外の世界へ向かって伸びていくものは何なのか。
カイは答えに辿り着く。
(それは――人の想い)
濁流は今も荒れ狂っている。
世界はまだ、何が真実で何がフェイクなのか分からない。
それでも。
(どれだけ世界が不確かでも)
カイは笑う。
(どれだけ世界が混沌としていても)
一人の女性を思い浮かべる。
(ユナ……お前を想う、この気持ちだけは揺らがない)
左手の指輪が、柔らかな光を放つ。
(この想いだけは――本物だから)
そのとき。
光の中から、懐かしい声が響いた。
「カイ――」
カイが顔を上げる。
そこには、光で形作られたユナが立っていた。
いつもの笑顔。
何度も思い出した、その表情。
「ちゃんと、真実へ辿り着いたんだね」
カイはうなずく。
「……ああ」
ユナを見つめる。
「もう迷わない」
カイが左手を掲げる。
ユナも右手を伸ばした。
二人の手が重なる。
触れた瞬間――指輪が共鳴を始めた。
柔らかな光が、混沌の世界を照らしていく。
「我思う――」
カイが言う。
ユナが微笑む。
「――ゆえに」
二人の声が重なった。
「君あり」
指輪が眩い光を放つ。
荒れ狂っていたデータの濁流が、その光に包まれていく。
真実とフェイク。
現実と仮想。
記憶と幻。
どちらかを消すのではない。
そのすべてを抱き込むように、光は広がっていく。
世界中へ。
どこまでも。
やがて――
世界は純白の光へ溶けていった。
***
光が、ゆっくりと消えていく。
崩壊は止まっていた。
遠くから、その光景を見守る人影。
ユカ。
ピコ。
セラ博士。
アラン。
サクラ。
リサ。
ジロウ。
トモ。
誰も言葉を発することができない。
ユカだけが、祈るようにつぶやいた。
「カイ……」
声が震える。
「帰ってきて……」
セラが、そっとユカの肩に手を置く。
「彼なら大丈夫よ」
「セラ博士……」
「戻るって約束したでしょう?」
セラは優しく微笑む。
「カイは、約束を守る人よ」
そして、光の消えていった空を見上げた。
「ユナとカイ……」
その瞳が、少しだけ細くなる。
「あの子たちが、世界を救ってくれた」
ユカは涙をぬぐった。
そして――
何度も、何度もうなずいた。
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