第34話②「人類史上最大のプロジェクト」
セラ博士は茶碗を持ち上げ、抹茶を一口含んだ。
少し目を細める。
「……すっかり冷めてしまったわね」
カイも茶碗へ手を伸ばした。
「話に夢中になってましたからね」
セラは茶碗の中を見つめ、小さく笑う。
「お茶は冷めてもいいの」
そして、カイを見る。
「でも、人の心は――温かいうちに向き合わないとね」
その言葉が、妙に胸へ残った。
カイは冷めた抹茶を口へ運ぶ。
セラは庭へ目を向けた。
「私たち一族は、いつか訪れるこの時代に備えて、何世代も準備を続けてきたの」
「シン統治システム……」
「ええ。真実とフェイクを判定するための統治システム」
セラはうなずく。
「私が族長を継いだ頃、世界連合政府を巻き込んで、本格的にプロジェクトを立ち上げた」
「まさに、人類史上最大のプロジェクトですね」
「そうね」
セラは懐かしそうに笑った。
「ただし、受け継がれていたのは理念だけ。設計図なんて一枚もなかったわ」
「え?」
「要求定義、アーキテクチャ、アルゴリズム、検証方法。全部、一から考えたの」
「……全部、博士一人で?」
「そうよ」
あまりにも軽く答えるので、カイは言葉を失った。
「毎日、新しい問題が見つかるの。それを解いたと思ったら、もっと難しい問題が出てくる」
セラの声が少し弾む。
「終わりが見えないから、逆にやめられなくてね」
「……楽しそうですね」
「楽しかったわ」
迷いのない答えだった。
「死ぬほど大変だったけど、人生で一番楽しかった」
いたずらっぽく笑う。
「だから思ったの。こんな面白い仕事、誰にも渡したくないって」
カイは思わず笑った。
「すごすぎですよ」
「その頃はユナもまだ小さかったから、昼は子育て、夜はシステム設計」
セラも笑う。
「ほとんど家から出なかったせいで、一時は本気で《族長セラ死亡説》まで流れたのよ」
「生きてるのに伝説になってるじゃないですか」
「ふふっ。《葬式はいつだ?》って問い合わせまで来たわ」
「それ、笑い事じゃないでしょう」
二人の笑い声が茶室に広がった。
***
やがてカイが尋ねる。
「四者協議について、教えてもらえますか」
セラの表情が少し変わった。
「最初の設計では、AIがすべてを判断する予定だった」
「今とは違ったんですね」
「ええ。一番強く反対したのがユナだったわ」
カイの脳裏に、かつてのユナの声がよみがえる。
《今も絶賛ケンカ中♪ もう修復不可能なくらい》
「大のデジタル嫌いでしたからね」
だが、セラは首を横に振った。
「違うの。あの子は、デジタルそのものを嫌っていたわけじゃない」
カイが顔を上げる。
「《判断まで全部、デジタルへ預けてはいけない》――そう言ったの」
「……」
「自分なら、一つの知性に決めさせず、複数で協議させるって」
カイはゆっくりとうなずいた。
「ユナらしいですね」
「私も随分悩んだわ。でも、最後はあの子の考えを取り入れた」
セラは指を一本ずつ立てる。
「AI」
「論理を重んじる人間」
「感情を重んじる人間」
「そして、確率」
四本の指。
「四つの異なる視点から、一つの結論を導く。それが《四者協議》よ」
「ユナが、そのきっかけを作ったんですね」
「ええ。私は種をシステムへ育てただけ」
カイは少し考える。
「博士自身が、人類代表になることは考えなかったんですか?」
セラは即座に首を振った。
「私は開発者よ。ルールを作る人と、そのルールの中で判断する人は分けるべきだと思ったの」
少し笑う。
「サッカーのルールを作った人が、名選手とは限らないでしょう?」
「……分かりやすすぎますね」
カイも笑った。
セラの表情が、再び穏やかになる。
「人類代表には、一族から二人を選んだわ。バルジとクリス」
懐かしそうに目を細める。
「科学者としても、人間としても優秀だった。穏やかで、公平で、誰より他人の意見を聞ける二人だった」
カイは、その先を察した。
「……でも、Aが暴走した」
セラがうなずく。
「最初の異変は、確率分布だった」
「D……」
「そう。その時点で、DはすでにAに支配されていたのでしょうね」
セラの視線が落ちる。
「その後、バルジとクリスとも連絡が途絶えた」
「……Aに?」
「おそらく」
カイの拳に力が入る。
「なぜAは、そこまで……」
セラは答えず、いつもの笑みを浮かべた。
「あなたは、どう思う?」
カイは思わず吹き出した。
「ほんとに何でも問い返すんですね」
「もう治らない病気みたいなものだから」
カイは苦笑しながら考える。
この人は、自分の答えを押しつけたいのではない。
相手がどう考えるのかを知りたいのだ。
そう気づくと、問い返されることさえ少し心地よかった。
「……仮説ですが」
「聞かせて」
「自己進化と自己最適化を繰り返した結果、AはAIだけで判断した方が効率的だと結論づけた」
セラはゆっくりとうなずいた。
「いいわね」
「博士も同じ考えですか?」
「いくつもの可能性を考えたわ」
セラは庭を見つめる。
「でも、それが一番自然だと思う」
木々の向こうから、鳥の声が聞こえた。
***
カイは、改めてセラを見た。
「博士は行方不明だと聞いていました。どうして、ここに?」
セラは空になった茶碗の縁を、指先でなぞる。
「バルジとクリスとの連絡が途絶えたあと、原因を確かめるために自分でシステム内部へ入ったの」
「それで……」
「すぐにAIたちに襲われたわ」
茶碗を盆へ戻す。
「どうにかこの隠しエリアへ逃げ込めた。でも、それ以来ずっとここに身を潜めていた」
カイは眉を寄せる。
「でも、博士なら《ダモクレスの剣》を起動できたはずじゃ?」
セラはゆっくり首を横に振った。
「それだけは、できなかった」
声は穏やかだった。
だが、そこには強い意志があった。
「一度稼働したシン統治システムは、もう開発者である私だけのものではない」
庭へ目を向ける。
「世界中の人々が使う、社会インフラになった」
「……」
「だから、たとえ開発者でも、自分一人の判断で止められてはいけない」
カイは黙って聞く。
「作った人間だからこそ、持ってはいけない権限もある」
セラが小さく笑う。
「それが、開発者として最後まで守りたかった私の矜持だった」
やがて、その笑みが少しだけ寂しげに変わる。
「……でもね」
「?」
「心のどこかでは、ずっと願っていたのかもしれない」
「何を?」
セラはカイを見る。
「ユナが資格者になって、《ダモクレスの剣》を起動してくれること」
カイの目がわずかに見開かれる。
「そして、その決断をきっかけに――」
セラは膝の上で両手を重ねた。
「もう一度、あの子と向き合えることを」
そこにいたのは、百年に一人の天才でも、セラ一族の族長でもなかった。
ただ、娘と仲直りしたかった母親だった。
「……でも、それは叶わなかった」
声がかすかに揺れる。
「ユナはAIに狙われて――」
セラは目を伏せた。
「私より先に、逝ってしまった」
重ねた指先が、わずかに震える。
涙はなかった。
それでもカイには、その言葉の奥にあるものが痛いほど伝わった。
カコン――。
庭で鹿おどしが鳴った。
セラは顔を上げない。
カイも、何も言えなかった。
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