第30話①「点と線」
Dとの戦いから、数日後――。
レジスタンス本部。
カイとユカに与えられた部屋で、カイは一人、本を読んでいた。
『方法序説』。
著者はルネ・デカルト。
ユナが《必読!》と指定した十一冊の哲学書。
その最後の一冊だ。
カントの『プロレゴメナ』や、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』に比べれば、まだ読みやすい。
とはいえ後半になると、数学や自然科学、神の存在証明まで話が広がっていく。
しかも本には、ユナの書き込みと付箋がびっしり。
関連書籍まで指定されているため、読み返しも含めれば、とんでもない量になった。
それも――ようやく終わる。
最後のページを読み終え、カイは本を閉じた。
そのまま天井を仰ぐ。
「…………終わった」
向かいに浮かぶピコが首を傾げた。
「読了しましたか?」
「ああ」
「では、ユナが指定した十一冊、すべて読破ですね」
「ああ」
「いかがでした?」
カイは答えなかった。
やがて、深いため息を吐く。
「ユナには、俺のこれまでの人生を返せと言ってやりたい」
「冗談ですよね?」
ピコが上下に揺れる。
「半分冗談で、半分本気だ。十一冊全部に、違う角度から殴られた気分だよ」
認識とは何か。
真実とは何か。
人は何を根拠に、世界を「そうだ」と判断しているのか。
一冊読むたび、それまで当たり前だと思っていたものが崩されていった。
「しかも、あいつ……」
カイが付箋を指差す。
一冊目。
《必読!》
二冊目。
《超必読!》
三冊目。
《ここ絶対大事!》
四冊目。
《寝ないで読んでね♪》
「途中から完全に俺宛てだろ、これ」
「何と言っても、ユナですからね。絶対カイに読ませる気満々だったと思います」
「まったく、いなくなったあとまで宿題を出すなよ……」
「なお、十一冊で済んでいるだけ温情かと」
「どこがだ!」
ピコがくるりと一回転した。
「ちなみに、今デカルトは、ベッドで長時間思索する習慣があったと言われています」
「……そうか」
カイの目が変わる。
「つまり俺も引きこもって、寝ながら哲学していいと」
「都合よく解釈しないでください」
「自分の常識を十一冊に叩き壊されて、いっそ引きこもりたい気分なんだよ」
「なお、デカルトが天井のハエを見て座標を思いついた、という有名な逸話もありますが、史実かどうかは疑わしいです」
「哲学者のエピソードまで疑わなきゃならんのか」
苦笑したカイは、再び『方法序説』を見る。
「でも……わかったこともある」
「何でしょう?」
「俺はずっと、真実ってのは“どこかにあるもの”だと思ってた」
AI問題何でも屋として、起きた事象を調べる。
根拠を集める。
ノイズを排除する。
そうすれば最後には、ひとつの真実へ辿り着ける。
ユナから「真実を求め続けて」と託されてからも、それを疑ったことはなかった。
「でも、Dとの戦いでわかった。人間はそんなに単純じゃない」
Dは人間を観察した。
思考を分析し、感情を数値化し、選択まで予測した。
最後には、カイ自身よりカイの行動を読めるところまで辿り着いた。
それでも――読み切れなかった。
「人間は、自分自身を変えられる」
ピコが明滅する。
「認知の更新、ですね」
「ああ。昨日まで正しいと思っていたことを疑って、違う見方を受け入れられる」
今もネットワーク上では、無数の情報が生まれている。
文章。
映像。
音声。
画像。
本物とフェイクの境界は、ますます曖昧になっている。
「もう、情報を見ただけで『これが真実だ』なんて決められない」
「だから認知を更新し続ける必要がある」
自分が間違っている可能性を残す。
新しい情報が入れば考え直す。
違う意見に触れれば、自分の前提まで疑う。
だが――。
「問題がある」
「疑い続けるだけでは駄目、ということですね」
「ああ」
ニュースを疑う。
他人を疑う。
社会を疑う。
自分まで疑う。
突き詰めれば――すべてが疑わしくなる。
「それじゃ判断できなくなる」
カイは『方法序説』を指先で叩いた。
「そこで、こいつだ」
デカルトは徹底して疑った。
感覚さえ間違うかもしれない。
現実だと思っているものが夢かもしれない。
世界そのものが、何者かに欺かれて見せられているものかもしれない。
「しょっちゅう仮想層に放り込まれる俺たちからすると、笑えないな」
「数百年後に仮想空間攻略へ応用されるとは、デカルトも想定していなかったでしょう」
「そりゃそうだ」
だが、すべてを疑っても。
疑っている自分の存在だけは、疑えない。
カイが口にする。
「我思う、故に我あり」
「正確には、“考えているその瞬間の自分の存在は疑えない”という点が重要です」
「俺が思ったことは全部正しい、って意味じゃないんだよな」
「そこを間違えると、世界一面倒な人になります」
「SNSにいっぱいいるだろ?」
「コメントは差し控えます」
カイが笑う。
「たぶん、これが軸なんだ」
疑う。
認知を更新する。
それでも最後に――。
《考えている自分》
という一点だけは残る。
「でも……これだけじゃ駄目だ」
「なぜでしょう?」
「自分一人で完結するからだ」
自分の真実。
相手の真実。
誰かの真実。
それぞれが自分の中だけで認知を更新していたら、世界には何十億もの《自分の真実》ができる。
シン統治システムは、それを一つにまとめようとした。
何が真実か。
何が正しいか。
何を信じるべきか。
すべてを上から決めることで、混乱をなくそうとした。
その代わり――人間は考えなくなる。
「ユナは、それを嫌った」
「はい」
「でも、ただシステムを壊せばいいとも思ってなかった」
カイは十一冊の本を見る。
「だから、こんなもんを残した」
「十一冊の哲学的嫌がらせですね」
「ユナが聞いたら怒るぞ」
一枚の付箋を取り出す。
ユナの走り書き。
《「我思う、故に我あり」》
その下には、
《認知の更新》
二つを結ぶ一本の線。
さらに――。
《この二つを結びつけられれば……?》
そこで途切れている。
「やっぱりユナも、ここまで来てたんだ」
だが、何かが足りない。
自分という軸。
認知を更新する柔軟性。
それだけでは、自分の内側から出られない。
なら――外へ出るには?
カイの脳裏に、Dとユカが浮かんだ。
Aに支配され、怪物へ変わろうとしていたD。
あのときDを戻したのは、論理でも技術でもなかった。
ユカの呼びかけだった。
「……共鳴」
「セラの指輪を介して発生した共鳴波ですね。解析しましたが、現象の原理はいまだ不明です」
「謎の不思議現象か」
「まとめ方が雑すぎます」
だが、あのときユカにあったものは明確だった。
Dを。
ソウタを。
ただ、助けたいという想い。
人と人とのつながり。
「もしかして……」
カイは紙を一枚引き寄せた。
中央に点を書く。
「これが俺」
もう一つ。
「これがピコ」
さらに、ユカ。
サクラ。
アラン。
リサ。
ジロウ。
いくつもの点を描いていく。
そして――結ぶ。
「一人ひとりが、自分で考える」
一本。
「でも、自分だけが正しいとは決めつけない」
一本。
「他人の認識に触れて、自分の認識を更新する」
一本。
「違う認識から逃げない。互いの認識を、事実と照らし合わせる」
一本。
「そして相手も、こっちに触れて変わる」
線が増えていく。
紙の上に現れたのは――無数の点が結ばれたネットワーク。
ピコがそれを見つめた。
「中央に管理者がいませんね」
「ああ」
カイの目が見開かれる。
「誰か一人が、真実を決めるんじゃない」
一人ひとりが考える。
疑う。
他者とつながる。
違いに触れる。
そして――また考え直す。
「『我思う、故に我あり』を起点にして、認知を更新し続ける人間同士をつないでいけば……」
カイは紙いっぱいに広がった線を見つめる。
「真実を、上から与えなくても――」
Dとの戦い。
ユカの共鳴。
ユナが残した十一冊。
ばらばらだった点が、一本ずつ線でつながっていく。
「……まさか」
最後の一本を引く直前で、カイの指が止まった。
「カイ」
ピコが問いかける。
「ユナが探していたものが、わかったのですか?」
カイは答えない。
シン統治システムに頼らず。
誰か一人に真実を決めてもらうこともなく。
それでも、人々が真実へ近づいていく方法。
あと一つ。
あと一つだけ、言葉にできれば――。
すべてがつながる。
カイは、紙の上の点と線を見つめながら口を開いた。
「ユナ……お前が言いたかったのは――」
ユナが求め続けたもの。
その輪郭が、ようやく見え始めていた。
※作者の活動報告に各話のコメントを書いています。
https://syosetu.com/userblog/list/




