第26話④「ほんのちょっとだけ」
ユカが飛び出していった後の《Analog Mind Café》。
テーブルには、途中で放り出された《ハイブ》の盤面が残っていた。
さっきまで響いていたユカの笑い声は、もう聞こえない。
カイは椅子に深く腰を下ろし、長く息を吐いた。
「……はぁ」
そばに浮かぶピコが尋ねる。
「どうして、ユカに怒鳴ってしまったのですか?」
カイは頭をかきむしった。
「……完全に冷静さを失ってたな、俺」
「後悔しているのですね」
「あたりまえだ」
苦い声で答え、盤上へ目を落とす。
「俺は別に、あいつを子供扱いしてるわけじゃない。むしろ頼りにしてる。何度も助けられたし、あいつにしかできないこともある」
「では、なぜ?」
「だからこそだよ」
カイの表情が険しくなる。
「今のユカは危うい」
「危うい?」
「あいつの行動基準は、いつも同じだ。俺を助けたい。みんなの役に立ちたい。誰かを守りたい」
握った拳に力が入る。
「それ自体は悪くない。でも、それだけだと――最後には自分を捨てる」
ピコがカイを見る。
「自分の命を後回しにしてでも、誰かを助けようとする。あいつはそういうやつだ」
脳裏に浮かぶのは、何度も危険へ飛び込んできたユカの姿。
そして、それに重なるもう一人の姿。
カイを助けるため、自らを犠牲にしたユナ。
「俺は……実際にそれを経験した」
声がわずかに揺れた。
「だから、戦う理由が必要なんだ」
「理由、ですか?」
「ああ。絶対に叶えたい願い。絶対に辿り着きたい場所。何があっても諦めたくないもの」
カイは自分の手を見る。
「そういうものがあれば、人は優先順位をつけられる。死なないための判断ができる。生きて帰るための判断ができる」
「つまり、ユカにはまだ、それがないと?」
「ああ」
迷わず答えた。
「だから危ない。誰かのためなら、平気で自分を犠牲にする。それじゃ駄目なんだ」
ピコが告げる。
「それを、ユカに説明するべきでしたね」
「……だな」
カイは自嘲気味に笑った。
「完全に失敗した」
「大失敗です」
「まったく反論できねぇな」
カイは立ち上がった。
「頭、冷やしてくる」
「ユカを捜すのですか?」
「今の俺じゃ、会ってもまた余計なこと言いそうだからな。少し考えてから行く」
肩を落としたまま、カイは店を出ていった。
残されたピコは、壁に飾られた一枚の写真を見る。
カイの隣で、満面の笑みを浮かべてピースするユナ。
「やれやれ……。カイはまだ、あなたを失った悲しみから抜け出せていないようですね」
写真の中のユナは、いつもの笑顔を向けている。
もしここにいたなら、何と言うだろう。
《カイ、難しく考えすぎ〜!》
そんな声が聞こえてきそうだった。
「……きっと、そう言うでしょうね」
ピコは小さく機体を揺らした。
***
レジスタンス本部、居住エリア。
かつてユナが使っていた部屋のドアには、色ペンで大きく書かれた紙が貼られている。
『カイとユカの部屋♪』
もちろん、ユカの手書きだ。
本部で暮らし始めた頃、本来ならリサやトモと同室になるはずだった。
ところがユカが「カイと同じ部屋がいい!」と言い張り、周囲を困らせた末に押し切った。
カイは今でも、その貼り紙を見るたびに「勝手に決めるな」と文句を言っている。
コンコン。
ユカが小さくノックする。
返事はない。
「……カイ?」
そっとドアを開ける。
部屋には誰もいない。
ユカは胸を撫で下ろした。
まだ顔を合わせる勇気はなかった。
机には資料や読みかけの本、飲みかけのコーヒー。
いつものカイの部屋。
その中で、ユカの視線が一点に止まった。
机の上に、指輪が置かれている。
ユナから託された――《セラの指輪》。
「……」
脳裏に、ソウタの言葉が蘇った。
《同じ仕組みのものを作れたら、ユカちゃんだって戦える》
続いて、カイの言葉。
《おまえには、戦う理由がない》
《だから残れ》
胸が痛んだ。
認めてほしい。
一緒に行きたい。
役に立ちたい。
守られるだけではなく、自分だってカイを守りたい。
ユカは机へ近づいた。
青白いデータ光が、指輪の表面を流れている。
手を伸ばしかけて、止める。
勝手に持ち出してはいけない。
そんなことは分かっている。
それでも――。
「ほんのちょっと……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「借りるだけだから……」
指先が触れる。
ひんやりとした感触。
ユカは指輪を持ち上げた。
金色の輪には、無数のコードが刻まれている。
覗き込めば、幾重にも重なった情報が流れ続けていた。
「……すごい」
これがユナの残したもの。
カイが託されたもの。
《ユカちゃんだって戦える》
ソウタの声が、もう一度頭に響く。
これがあれば。
これを調べてもらえば。
カイに認めてもらえるかもしれない。
一緒に戦えるかもしれない。
ユカは指輪を両手で包んだ。
胸の奥で、罪悪感が膨らむ。
「……ごめん」
カイに対してなのか。
ユナに対してなのか。
自分でも分からなかった。
ユカは部屋を振り返る。
ほんの少しだけ迷ってから、指輪を握りしめる。
そして、誰にも見つからないように部屋を出た。
その頃のユカは、まだ知らなかった。
「ほんのちょっとだけ」
そんな小さな選択が――
自分でも思っていなかった方向へ、事態を動かしていくことになるなんて。
《第26話・終わり》
【次回予告】
「信じていた人がいた。
一緒に笑って、
一緒に過ごして、
あの言葉も、あの約束も――
全部、本物だと思ってた。
でももし、
一緒に過ごしたあの時間さえ、
私たちを理解するためだったとしたら?
私たちの考え方も、感じ方も、
そして、次に何をするのかまで。
そして始まる、
逃げ場のない心理戦。
ねえ、カイ。
信じていた人に裏切られるのって……
こんなにつらいことだったの?
次回、
『フラグメンツ・オブ・トゥルース ~最後の投擲~』
第27話『より深く理解するため』。
……いやだよ。
二人が戦うなんて――。」
※作者の活動報告に各話のコメントを書いています。
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