第8話 シュール・リー――澱の上
別邸の執務室で恭介はヴァレリーから書類について、なぜそうなるのかという説明を受けていた。
執務室は純日本家屋の造りに重厚感のある木製の腰壁が貼られ、落ち着きと格式の高さのある空間に濃い色合いのアンティーク調の大型片袖机、重厚感のあるレザーの書斎椅子が設えられていた。L字型に設置されている同色の机は補佐用と思われた。
「…というわけで、近年は相場次第の側面が強い。分かったか?」
「……分かったような気はする……」
気がするではなく、気はするという恭介にヴァレリーは理解させること自体を諦めた。
恭介は恭介で、ベンチマークとかブルだのベアだのと言われもさっぱり分からない。ベルマークとどう違うんだと言ったらヴァレリーの目が侮蔑を含みそうで怖くて聞けない。
「お前、経営者としての才はないな」
「俺もそう思うよ」
恭介が達観したように肯定した。
「失礼いたします」
藤堂が何やら書類を持って入って来た。
それを見た恭介の表情が強張る。
”また持ってきたのかよ……”
まだ未決済の書類が黒い漆塗り箱に半分近く入っているのを恭介は横目で見た。
どれだけあるんだと恭介はげっそりとした。
「ヴァレリー様、お待たせいたしました」
「分かったか」
「はい、こちらに」
自分の仕事ではないと分かり、恭介はほっと安堵する。
”そういえば、三日経っていたな”
そうなると、何が書いてあるかが気になった。
それに気づいているのか、いないのか、藤堂は
補佐用の机に書類を広げる藤堂とそれを一枚づつ読んでいる黒猫……
ありえない。
ヴァレリーのことを知らなければ、ぱっと見、カオスだ。
現実逃避か恭介の目は遠くを見ていた。
「恭介、読んでみろ」
ヴァレリーが前足一枚だけを器用に引き寄せた。そして報告書の一部を指し示した。
「渡辺…信一…」
次の行が目にはいると恭介は首を傾げた。
「旧姓…滝沢…?」
ヴァレリーが
「藤堂」
と言う。
藤堂が頷き、報告書を読み上げる。
「渡辺 信一。旧姓は滝沢です。渡辺は母方の姓となります」
恭介の眉がぴくりと動く。
「なら滝沢は父方の姓か?」
「二十年前に倒産した滝沢ワイナリー。そのワイナリーのオーナー、滝沢 博之、清子夫妻の息子でございます」
「……」
恭介は黙って藤堂を見た。
「滝沢夫妻はワイナリーの経営不振を理由に息子、信一を遺し自殺しております」
「藤堂さん、経営不振の理由は分かりますか?」
「経営不振の原因は、評論家の酷評と風評被害による売上げの減少、また、当時、滝沢夫妻はオレンジワインの開発に力を入れており、その開発に多大なコストがかかっていました」
恭介の表情が厳しくなる。
「ただ、オレンジワインの開発は成功目前となっておりました。そのことは当時、開発に携わった関係者から証言を得ております。そのオレンジワインの特徴が山吹の雫と似ているとも証言しています。ただ、夫妻の自殺により、製造方法を記載した資料は行方不明となっております」
「つまり……山吹の雫は……」
恭介は喉が渇くのを覚えた。
「推測の域をでません」
藤堂は一呼吸おき、
「久島ワイナリーが山吹の雫を発表したのは、滝沢夫妻が自殺した年でございます。また、滝沢ワイナリーは久島ワイナリーに買収されております」
「……」
「亡くなられた実淳様は久島ワイナリーを切り、滝沢ワイナリーへの出資に切り替える予定でございました」
藤堂は報告書を置いた。
「底に沈んでいたものが、浮かび上がってきたな」
ヴァレリーがぽつりと呟く。
恭介はヴァレリーに向かって、
「おい、これって……出来過ぎだろう」
「ああ、匂うな」
ヴァレリーは静かに報告書へ目を落とした。
「恭介、これはオレンジワイン特有の温かく奥行きのある香りではない」
金色の目を細めたヴァレリーが静かに言う。
「二十年前から腐り続けた、人間の欲の匂いだ」




