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第9話 プレシピタシオン――沈殿

 浅間山から吹き下ろす風が日々冷たくなり、ブドウ畑を吹き抜けた。

 葡萄の落葉は畝を隠すようになり、もう少ししたら、葉はすべて落ち剪定の時期となる。

 観光客もいないこの時期のブドウ畑は閑散としていた。

 渡辺は私物の入った鞄を足元に置いて、ブドウ畑を眺めてた。


 ”見納めか……”


 先程、久島からオーナー室に呼び出されて、退職を言い渡された。


 ”君が犯人と決まったわけではないが、外聞が悪い。これで売上げが落ちでもしたら困ったことになるんだ……それに”


 久島は言い辛そうに言葉を一度切り、


 ”……加藤氏とご両親の間に因縁があっただろう?それがどうもな……給料と退職金は後日振込んでおくから、明日から来なくていい”


 退職といいつつ、体のいいクビだった。

 足元の鞄を肩にかけて歩く。

 かって、父親のブドウ畑だった場所に行くと、葉の少なくなった葡萄の木々を渡辺は名残惜しそうに見た。

 ワイン用の葡萄の木の寿命は五十年から百年。

 両親が亡くなっても、葡萄の木は両親のかわりに渡辺を迎えてくれた。

 ここに来れるのも今日で最後かと思うと、悔しくて、渡辺の目に薄っすらと涙が滲んだ。

 両親の葡萄の世話をこれからはしてやれない。


 ”……剪定してやりたかったな……”


 渡辺はそっと葡萄の木に触れた。

 後ろで土を踏む音がした。

 振り返ると、黒猫を連れた恭介が立っていた。

 渡辺は急いで目を拭う。


「?千束さん……」


「警察の方は大丈夫でしたか?」


 その口調は好奇心からではなく、純粋に心配してくれていたと分かるものだった。

 恭介が連れていた黒猫は葡萄の木に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいた。


「ええ……いろいろと聞かれましたが」


「お疲れでした。その……お疲れのところ恐縮なんですが、少しお時間を頂いてもいいですか?」


「構いませんが……」


「えっと、場所を移しましょう。ちょっと、遠いんですが、私の家までご足労頂いても構いませんか?」


 言い難そうな恭介の態度に、渡辺は首を傾げた。


「ええ、いいですよ」


「まぁ、とりあえず、車に乗ってください」




 そうして連れて行かれた一条寺家の別邸の前で渡辺は固まった。

 ずらりと並んだ使用人に戸惑いを隠せない渡辺のその姿に、そうだよなと恭介は共感する。

 ヴァレリーの鍵しっぽが、行くぞと恭介の足を強く叩いた。

 使用人の前を堂々と歩くヴァレリーに苦笑を浮かべた。


「どうぞ、こっちです」


 恭介は呆然としている渡辺を促し、応接室に案内した。

 恭介は渡辺にソファーを勧め、自分は渡辺の向かい側に腰を下ろした。


 とん。


 跳んでソファーに載ったヴァレリーは恭介の横に座った。

 藤堂とワゴンを押したメイドが入って来る。

 ティーポットの紅茶をカップに注ぐと、優雅な動作で渡辺の前にカップを置く。

 恭介の前にも同様に紅茶が置かれた。

 藤堂に下がるように指示を受けたメイドが部屋から出て行くと、恭介が口を開いた。


「渡辺さん……いえ、滝沢さんとお呼びした方がいいですか?」


 渡辺がはっとして顔を上げて、恭介を見た。


「……ご存知なんですね……」


「少し調べさせて頂きました」


「そうですか……どこまでご存知なんですか?」


「二十年前の滝沢ワイナリーのことまでです」


 部屋には静寂が満ちた。

 渡辺はテーブルに置かれたカップに目を落としたまま、小さく息を吐いた。


「そこまで……調べられたんですね……」


「すみません……あの事件の事実が知りたかっただけなんです。責めるわけじゃありません」


 ヴァレリーはじっと渡辺を見ていた。

 渡辺は戸惑いを含んだ視線を恭介に向けた。


「……父も、母もあの小さなワイナリーを愛していました。葡萄の糖度が上がったと言っては喜び、長雨になると病気の心配をしていました」


 回想する渡辺の目は遠くを見ていた。


「夜中、目を覚ますと父は居間でノートにその日の育成状況や構想を書いていました。母は邪魔をしないように、お茶だけをそっと置いていく。……見慣れた光景、あれが我が家のいつもの夜でした」


 渡辺は目を開けるとぎゅと拳を握った。


「酷評されても父は、動じなかった。最後まで葡萄を信じてました。こんなものは新酒時期になったら、直ぐに跳ね返してやると言って……」


「酷評したのが、加藤さんだということは知ってましたか?」


「あの日、新酒の発表会の日に知りました。笑えますよね。両親を死に追いやった人間の評価をずっと気にしていたなんて……」


「加藤さんのこと、どう思いましたか?」


「……憎かった」


「殺したいと思うほど?」


「ええ」


 渡辺は静かに笑った。


「殺したいほどに」


 渡辺は一度、言葉を切り、自分の手に視線を落とした。


「この手で殺したかった……けど、父が……いえ、葡萄が止めるんです。ワインで見返してやれと……」


 渡辺の告白は最後には涙声になっていた。

 両手で顔を覆い、渡辺は嗚咽を漏らした。

 ヴァレリーは静かに渡辺を見つめていた。


「真実は静かだ」


 部屋には渡辺の嗚咽だけが響いていた。


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