第10話 撹拌
翌日──
サンライズ本社。
ヴァレリーの入ったキャリーケースを手に恭介はいつもの格好で会長室を訪れた。
洗いざらしのシャツにジーンズ。
飾らない千束恭介に佐田は目を細めた。
「まぁ、掛けてくれ……おい、茶を置いたら暫く二人きりにしてくれ」
佐田は秘書に指示をすると、秘書が下がるまで目を閉じ、ひと言も発しようとしなかった。
その間に恭介は佐田を見た。
ヴァレリーもじっと佐田を観察していた。
心労か覇気のようなものがいささかないように見えた。薄っすらと隈が浮いていた。
秘書が退出すると佐田はふうっと息を吐いた。
「この度はご愁傷さまでした……お疲れですね」
「うん、ありがとう……そうだな。少し疲れたな」
そうそう弱ったところなど見せないが目の前の青年には見せても構わない気がした。
戦友とも呼べた故人に気質が似ているせいだろうか。
「今日、私を呼んだのは浩美さんの件ですか?」
「なぜ、そう思う」佐田は視線で問う。
「そうですね。私に連絡をくれたタイミングと浩美さんの性格ですかね……」
「……さすがだな……」
「詳しくお聞きしてもよろしいですか?」
「わかった」
佐田は立ち上がるとオーク材で造られた机から茶封筒を取り上げた。
恭介にすっと差し出した。
「これを見ろ」
(なぜだ……)
和明は明かりもつけずにマンションの自室の隅で脚を抱えて座り込んでいた。
モノトーンで統一されたスタイリッシュな部屋の窓の向こうにはレインボーブリッジが見える。巨大のアーチの橋の上を流れる車のヘッドライトが、まるで光の粒子となって流れていた。
壁に掛けられているテレビからはニュースが流れている。
壮年のアナウンサーが淡々とサンライズ山梨蒸留所で起きた事件について解説しているのを震えながら和明は観ていた。
浩美を突き飛ばしたのは倉庫の二階だった。
だが、刑事は遺体は一階で発見されたと言った。
浩美は動かなかったし、生気のない目で和明を見ていた。それが……死体が動いたなんてあるものか。
昨日、刑事が来て事情聴取されているときにそのことを知り、心臓が飛び出るかと思った。
動揺した様子に不信感を持たれたが、仲の良かった従妹が行きたがっていたから連れて行っただけなのに、なぜと落ち込んでみせた。
しかも殺人かもしれないと聞いてさらに嘆いて憔悴した従兄弟を演じた。
猪熊という刑事は感情の読めない表情をしていたが、隣に座っていた刑事は同情しているような表情をしていた。
「お力を落とさず」と声をかけて帰った位だ。
なんとか乗り切ったと思っていたのに、猪熊は
「また、お伺いすることがあるかもしれませんので、所在ははっきりとさせておいてください」
と和明に念を押した。
(押したら浩美がよろけて倒れただけじゃないか。俺のせいじゃない……浩美があんなものを出してこなければ、俺だって押すことはなかったんだ……そういえば、あの紙はどうした……?)
ばっと立ち上がると、クリーニングに出そうとランドリーバッグに入れていたジャケットとズボンを漁り取り出した。
ポケットの中を確認する。
(ない、ない……落ち着いて思い出せ……突き飛ばして……)
ピピッ
静寂を引き裂く唐突な電子音が、行き場のない焦燥感に張り詰めた空気を震わせた。
(なんだよ、こんなときに)
苛立ちまぎれに和明はスマートフォンに乱暴に指を滑らせた。
画面を消そうとした指が、『落し物』という見出しに止まる。
怪訝に思いながらタップした画面に表示されたのは、一枚の写メ。
それは、あの夜、浩美から突きつけられた『同意書』だった。
誰かが現場にいた。
あの時、倉庫には俺と浩美しかいないはずだった。
すべてを見られていたのだ。
和明は画面の『同意書』を凝視したまま、膝からガクガクと崩れ落ちた。
へたり込んだまま、呼吸の仕方を忘れて喉を鳴らした。
スマートフォンを握る手は汗で滑り、それでも画面から視線を逸らすことができない。
闇の中から誰かが自分を覗き込んでいるような錯覚に囚われながら、画面を睨みつけることしかできなかった。
スマートフォンだけが、暗い部屋で青白く光り続けていた。




