第8話 燻煙
春とはいえ、南アルプスのこの地はまだ寒い。
蒸留所の敷地内の空気には春の気配に混じり微かな冬の名残りがあった。
職員たちは流れる水の悴むような冷たさが幾分和らいでいるのを肌で感じていた。
巨大な穀物貯蔵施設の大麦倉庫の前で男たちは柔らかな朝陽の中、倉庫の鍵を解錠しながら話していた。
「昨日に比べると今朝は暖かいな」
「ああ、昼間はまだしも、朝晩はまだまだ春は遠いって感じだ」
「今日の搬入はどうなってたかな?」
「先週出荷した量があれだから……変更になってなきゃ同じだ」
ガラガラと音を立て、重い扉が開かれた。
大麦の管理のために倉庫内は常に乾燥した空気が循環されている。
その空気の流れに乗り、乾燥した穀物の香ばしい匂いが鼻をついた。
フォークリフトの動線のため賽の目に区切られた倉庫内には、大麦の詰まった麻袋が積まれたパレットが区画ごとに置かれていた。
出荷のタグを貼るために二手に分かれた。
「ひぃっ!」
どさっ。
床にぶつかる音。
怯えた悲鳴。
(なんだ)
床に尻をついたまま後退る同僚の元まで行く。
「おい、どうした?」
「あ、あ、」
伝えようにも声が出ないようで意味を発しない単語が口をついていた。
しゃがみ込むと、がしっと腕を掴まれた。
震える指で奥を指すので目を向けた。
ひゅっと息を呑んだ。
仰向けに倒れている女性の視線は、まるで何かを見上げたまま固まっていた。
つられるように、その先を見た。
視線の先にあったものはーー
「……う、そだろ」
掠れた声。
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
サイレンの音を消した数台の警察車両が敷地内に進入してきた。
それらが大麦倉庫近くに停車すると中から警察関係者が慌ただしく降りてきた。
警察により倉庫一帯は規制される。
遠回しに職員らが規制線内を伺っていた。
不安そうに見ている者、ひそひそと隣同士で話している者、無関心を装っている者と様々だった。
発見した二人の職員は倉庫の外で発見当時の様子を聞かれた。
大麦倉庫は、一度原材料を運び入れたら、次の仕込みまで人が滅多に立ち入らないエリアとなり、今日は仕込みに備えて材料である大麦を運び出すために入ったと話した。
吊られていた遺体の下にあった紙には横領したことを告白する一文が記されていた。
一見、サラリーマンにしか見えない中年の刑事はビニール袋に入れられたそれを手に口をへの字に曲げていた。
遺体のあった場所には番号札が置かれていた。
首を吊った男と打撲痕のある女の遺体。
初老に近い男が若い女に入れあげた挙句の凶行か?
男が女を殺したのち、罪の意識の果ての無理心中……ないこともないが……。
「猪熊刑事、こちらの所長さんが来られました」
「ああ、わかった」
警官に声をかけられた猪熊は倉庫の外へと出た。
背の高い三十代の男が立っていた。
「猪熊と申します」
猪熊は所属の書かれた名刺を取り出すと男に差し出した。
仕立ての良いスーツを着た男は両手で受け取った。
「ここの所長を任せられております松島と申します」
「早速ですが、ご遺体の身元などおわかりですか?」
「はい。ここの経理部長の福島さんと創業家のお孫さんの矢田部浩美さんです」
「経理部長がここにいるのはわかりますが、なぜ、孫である彼女が?」
「昨日、ここの見学に来られたんです」
「お一人でですか?」
「いえ、もう一人のお孫さんである和明さんとお越しでした」
「福島さんと矢田部さんとの関係などは……」
「すみません。詳しくは……ただ……」
「ただ?なんですか?」
松島は言い辛らそうに
「昨日、福島さんに確認したいことがありまして……」
「なにを?」
「帳簿に少し気になる点がありましたから」
「……そうですか。矢田部さんは見学が終わられたらお帰りに?」
「多分。私はもうお一人かたのお見送りをしていたものですから」
「それは?」
「千束様です。会長から直々に指示がありましたので見学ツアーの案内もさせていただきました」
「ふむ。矢田部さんとは別々に」
「はい、いえ、最初は矢田部志信さんとお二人だけの予定でしたが、千束様と和明さんが同窓だということで、一緒に見学することになったんです」
「五人でですね」
「いえ、あと一人、会長秘書の城戸さんもいらっしゃいました。実は、志信さんとのお見合いだったのですが、強引に割り込まれて城戸さんも急遽一緒に回られたんです」
「そうですか。ありがとうございました。またなにかあればお伺いするかと思いますが」
「わかりました……あの、それで心中なんですか?」
「さぁ、どうでしょうか。それがなにか?」
猪熊の目が微かに眇められた。
「気になったもので。浩美さんは、お嬢様らしい穏やかな方に見えましたから……福島さんもいやはや……人は見かけによらないというか」
「まだ決まったわけではないですから」
「そうですね、すみません。では、私はこれで」
松島を見送りながら、猪熊の脳裏には新たに四人の名前が刻まれた。
千束恭介。 矢田部志信。 佐田和明。 城戸。
「昨日、この見学に来ていたという千束恭介……まずは、その男から話を聞くか」
一方その頃、一条寺家では、事件など知る由もなく、恭介は机の上の書類にげんなりし、ヴァレリーは静かに目を開けていた。




