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黒猫ヴァレリーの事件簿Ⅱ  作者: 高橋 なぎ
琥珀色の嘘 
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第7話 粉砕

「今日は貴重な経験をありがとうございました。佐田会長にもよろしくお伝えください」


 恭介はきちんと頭を下げ、礼をいうと迎えの車に乗り帰路に着いた。

 城戸と松島は車が見えなくなるまで見送る。


「今日はお疲れ様でした」


「城戸さんもお疲れ様でした。和明さんたちが来られたときは一体どうなることかと思いましたが」


 松島が苦笑を浮かべた。


「松島さんにもご迷惑をおかけして、すみませんでした」


「迷惑をなんとかする。そのための所長ですから……とはいえ、無事に済んでほっとしてます」


「そう言って貰えると助かります」


「城戸さんはこれから?」


「和明さんの様子を確認して、志信さんをご自宅へお送りしたのち、本社へ一度戻ります」


「会長秘書は大変ですね」


「仕事ですから。松島さんはこれで上がりですか?」


「いや、決算書類に目を通して帰ります。では、すみませんが、ここで失礼します」


 松島は軽く会釈して事務棟へと背を向けた。

 城戸は腕時計で時間を確認した。




 傾いた太陽が落葉樹の枝越しに、赤茶色のレンガやコンクリート造りの重厚な倉庫の壁に、斜めの鋭い光を投げかける。

 強烈な逆光が、人の顔や物陰を完全な黒いシルエットにしていた。

 原料の大麦を保管管理するための倉庫の二階に和明はいた。この時間帯、ここは人目がないことを和明は知っていた。

 床には麻袋からこぼれ落ちた大麦がそこかしこに散らばっている。

 和明はそれをつま先で蹴り散らした。

 乗ってきた車でさっさと帰えろうかと考えたが、城戸に試飲したところを見られている。あのまま運転をして帰ったら佐田に告げられるのは目に見えている。

 かと言って言われるままにするのも癪に障る。小煩い城戸が帰るまでここに隠れ、いなくなったら車で戻ることにした。


「ったく、浩美も使えねぇな」


 和明は苛立たしげに吐き捨てる。

 浩美を唆して恭介に仕掛けさせたがいまひとつ上手くいかなかった。


(つぎ、どうすっかな……浩美に誘惑させて、ベッドに入ったところ撮るか……)


「和明、探したわよ」


「よくわかったな」


「教えてもらったのよ。これ、よろしくね」


 浩美はバッグから一枚の紙を出した。

 どこかドライブに連れて行けというような気軽な態度だった。

 面倒くさそうに受け取った和明だが、読むうちに顔色がだんだんと悪くなる。


「……冗談だろ、浩美」


 和明は突きつけられた白い紙を睨みつけ、かすれた声を絞り出した。

 クリニックの同意書と書かれたその用紙には、すでに浩美の署名が乱暴な筆跡で並んでいる。


「冗談でこんなもの用意するわけないでしょう」


 浩美は整った爪の先を眺めながら鼻で笑った。外では見せない、冷ややかな見下すような視線が和明を射抜く。


「産むわけないじゃない、こんな面倒なもの。処置するのよ。そのためにも書類に父親としてのサインをして、相応の費用を一括で用意してよね」


「はぁっ?俺がか?」


「他に誰がいるのよ。それだけで済ませてあげるんだから、ありがたいと思いなさいよね」


「ふざけるな!」


 和明は紙をくしゃくしゃに握り潰した。


「俺の子だという確証がどこにある!それに、こんなものに一度でもサインしてみろ……お前が一生涯俺を強請るネタにするに決まってる!絶対に嫌だ。そんな致命的な弱みを握られてたまるか!お前、他にも男はいるだろうが」


 和明は浩美を睨みつけた。

 浩美の口元に、嗜虐的な歪んだ笑みが浮かぶ。


「あら、拒否する気?サインしないなら、お祖父様のところへ直接持っていくだけよ。『和明さんに無責任に孕まされて捨てられました』って泣きつけば、どうなると思う?あなたの薄っぺらなプライドも、後継者の椅子も、すべて一瞬でおしまいよ」


「お前だって……」


「あら、私はどっちに転ぼうと構わないわ。和明と結婚したところで遊べるし」


「……おい、浩美。話を――」


「話ならもう終わりよ」


 浩美がにやりと笑った。

 和明には目の前の女が自分の未来を食い荒らすだけの害虫にしか見えなかった。今ここで完全に消し去らなければ、一生この女の敷いたレールの上で搾取され続けるという恐怖さえ覚えさせられた。


「明日までにお金とサイン、よろしくね、パパ」


 浩美が勝ち誇った顔で和明に手を伸ばした瞬間、和明の頭の中で何かがぷつりと音を立てて千切れた。


「寄るな! ふざけるな、触るなッ!」


 和明は逆上し、目の前の浩美の肩を両手で力任せに突き飛ばした。


「きゃっ……!」


 押し戻された浩美は、床一面にこぼれ落ちていた乾燥大麦の粒にヒールを取られた。

 足元が丸太のように滑り、踏ん張りが利かない。

 バランスを完全に失った浩美の身体は、勢いよく後ろへ向かって跳ねるように倒れ込んだ。

 その軌道の先には、二階の低い天井と屋根の重量を支える、黒く無骨な鋳鉄製の支柱がそびえ立っていた。

浩美の後頭部は、その黒い鋳鉄製の支柱に吸い寄せられる引きように激突した。


 ガッ。


 鈍く重い音が薄暗い空間に響き渡った。


「……あっ」


 浩美の口から、小さな息の漏れるような音がこぼれた。

 その瞳は開いているがなにも映してはおらず、浩美の身体は糸の切れた操り人形のようにずるずると床へ崩れ落ちて動かない。


「お、おい、浩美?……冗談だよな?」


 和明はおどおどと声をかけた。

 浩美の四肢は投げ出されたまま、指先ひとつ動かない。

 鉄柱の表面には、べっとりと赤い液体が付いていた。

 和明の足元には踏まれた跡と埃で汚れている同意書が落ちている。


「ひっ……」


 和明は両手を宙に浮かせたまま、その場にへたり込んだ。

 広がる沈黙と、乾燥した麦芽の甘ったるい匂いの中に、浩美の頭部から流れ出た血の鉄錆の臭いが、じわりと混ざり始めていた。

 少しでもその場から離れたくて腕と足を使い後退る。


(死んだ……? 俺が、殺したのか……?)


 取り返しのつかない現実から逃れるように、和明は震える足で立ち上がると、一目散に倉庫から逃げ出した。




 和明や浩美と顔を合わせたくない志信は蒸留所内の遊歩道を充てなく歩いていた。

 まるで自分だけエアポケットに入っように志信は感じた。


(……お祖父様も城戸さんも、ちっとも私の気持ちなんて考えてない……)


 志信はふと倉庫の方角に目を向けた。

 倉庫の陰から城戸が足早に歩いてくるのが見えた。


(城戸さん、こんな時にも仕事なんだ……)


 不思議には思ったが、そのまま歩き去った。



 和明の足音が遠ざかる。

 やがて――


 ギギィ。


 重い鉄扉が閉まる音が、静寂を取り戻した倉庫に虚しく響いた。

 高窓から差し込む光だけの室内は薄暗い。

 誰もいないと思われた室内。

 ――だが、部屋にはもう一人、影が潜んでいた。

 その男は暗がりから、足音もなく姿を現した。

 長身の影が倉庫の床に映し出される。

 男は和明が逃げていった扉を一瞥したあと、床に倒れ伏す浩美の元へと静かに歩み寄った。

 屈み込み、首筋に指を当てる。


 トク、トク……


 微弱だが確かな脈動が指先に返ってきた。


(……まだ生きている)


 男が眉をわずかに動かした、その時だった。


「……ん……っ」


 血に濡れた浩美の唇から、かすかな呻きが漏れた。

 焦点の合わない瞳が、すぐそばにしゃがみ込む男の輪郭を捉える。

 朦朧とした意識の底から、浩美は男の顔を認識し、血の混じった唾液とともに掠れた声を絞り出した。


「あんた……のことも……あのことも……お爺さまに、言って……やる……」


 男は小さく息を呑んだ。

 全身の筋肉が一瞬で硬直する。

 浩美の視線には、激痛の奥底に確固たる憎悪と、すべてを暴いて破滅させてやるという執念が宿っていた。

 この女は、すべてを知っている。

 生かしてこの場から出せば、和明のことだけでなく、自分のやってきた悪事のすべてが白日の下に晒される――。


(ここで息を吹き返される方が厄介だ)


 男の瞳から、一切の躊躇が消え去った。

 男は無言のまま、上着で浩美の顔を覆った。

 目を逸らさなかった。

 弱々しい抵抗で宙を掻いた爪の欠けた浩美の手は、やがて大麦の散らばる床へと力なく落ち、二度と持ち上がることはなかった。

 完全に息絶えたことを確認した男は、ゆっくりと立ち上がる。

 ふと目の端に白いものが映った。

 目の隅に入った汚れた紙を拾い上げる。


(……こんなものを残していくとは)


 嘲笑が浮かんだ。


(この死体をここに残すわけにはいかないな……)


 男は浩美の遺体を抱え上げると、自らが福島を始末した場所へと運ぶことを決めた。

 首を吊らせた福島の足元に、この女の死体を転がしておく。

 そうすれば、警察は「横領を浩美に咎められた福島が逆上して彼女を殺害し、その罪悪感から自ら命を絶った」と結論づけるはずだ。

 重い遺体を担ぎ直し、貨物用エレベーターへ乗せると、ボタンを押した。


ブィィン


鈍い音と共にエレベーターが動き出した。

男は周囲を見渡す。

鉄柱と床に残る血痕を見つけると布で慎重に拭き取った。

 拭い去ると男は冷たい笑みを浮かべながら、階段を下りていった。

その姿は薄闇の中へと消えていった。


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