第5話 蒸留所
南アルプスの森の澄んだ水と手間暇かけて育んだ大麦。それに人の知恵と技術、そして長い歳月が合わさってこそ、人を酔わせるウイスキーになる――と創業から考えられ、その信念はいまも受け継がれていた。
そのため、サンライズのウィスキー蒸留所は南アルプスの麓にある、豊かな自然に囲まれた場所にあった。
駐車場で車を降りた恭介とヴァレリーは森の遊歩道を歩きながら奥へ進んていき、待ち合わせ場所のビジターセンターを目指した。
森林の中に迷い込んだような錯覚を抱かせる。
「植物の匂いが濃いな」
ヴァレリーが鼻をひくつかせている。
「ああ、空気がうまい」
恭介も深く吸い込んだ。
あれから、佐田に業務提携の前にウィスキーがどうやって造られるかを知って欲しいと言われ、強引に招待されたのだ。
森に溶け込むように設計されたビジターセンターの前ではここの所長である松島洋介が待っていた。
年齢は三十代後半ほどに見える男だった。少し垂れた目尻に笑い皺が刻まれた、ひょろりと背の高い男だった。
仕立ての良いワイシャツの上にはサンライズのロゴの入ったライトグレーのジャンパーを羽織っいた。
「千束様ですか?」
恭介はヴァレリーを片手に抱いたまま、
「こいつ共々、今日はお世話になります」
「会長から伺っております。本日、案内役を仰せつかりました所長の松島と申します。どうぞ、皆様、お待ちです」
松島は軽く会釈をした後、ビジターセンター内へ恭介とヴァレリーを招き入れた。
松島の後ろをついて歩きつつ、恭介はこっそりとヴァレリーに話しかけた。
「俺たちだけじゃなかったんだな」
「ふん。そういうことか、あの狸め」
ヴァレリーの目が眇められ、短いしっぽが不機嫌に恭介の脇腹を叩きつけた。
「……どういうことだ?」
「恭介」
ヴァレリーは見上げ、恭介の顔を見ると何かを思い出したようだった。
「……まぁ、お前だったな。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないとはよく言ったものだ」
「おい、ここの水って飲めないのか?」
「……水はどこでも飲める。安心しろ。だが、飲む水は選べよ」
「水道水でも飲めるぞ、俺は」
「そうだな……」
ヴァレリーは漏れそうになったため息を飲み込み、目を閉じた。
ビジターセンターの建物の中に一歩足を踏み入れると、外の深い森の静けさから一転し、木や花崗岩を贅沢に使った洗練されたモダンな空間が広がっており、天井が高く、自然光が心地よく差し込んでいた。
開放的なエントランスの最も目立つ場所に、蒸溜所と天然水工場の敷地全体を表現した大きな円形のジオラマが設置されており、そこには黒っぽいコートを着た脱色したボブカットの女性とスーツ姿の秘書の城戸が立っていた。
城戸は恭介に頭を下げた。
「千束様、本日は、ご足労おかけいたします」
「いえ、城戸さんでしたよね。こちらこそよろしくお願いします」
「本日の案内は松島がさせていただきますが、会長のお孫様もご一緒させていただく予定となっております。よろしいでしょうか」
(なんでだ?自分のところの蒸留所なんて見慣れてるんじゃないのか?)
と疑問を抱くが、断るほどのものではないと恭介は「構いません」と答えた。
それにヴァレリーがこっそりとため息を吐いたのを恭介は気が付かなかった。
「ご紹介させていただきます。会長の」
城戸の言葉を遮るように、和明の声が聞こえた。
「なんだ、千束も見学か?」
振り返ると和明が白いオーバーを着た大人しそうな女性を連れて立っていた。
城戸が微かな苛立ちを浮かべた。
「和明さん。仕事はどうされたんですか?」
「こいつが蒸留所見学したいって言うから、可愛い従妹のために有休取って案内してやろうかと思ってな」
和明は隣の女性を顎で指した。
「そうですか……」
「ちょうどいいや。一緒に回ろうぜ」
「い、いえ、それは」
「浩美も妹と一緒に回る方がいいよな?」
「妹?」
恭介の呟きに和明は嬉々として
「そう。そいつは浩美の妹で志信っていうんだよ」
城戸が連れていた女性を指した。
「ご一緒しても、ご迷惑ではありませんか?」
少し首を傾げて浩美が申しわけなさそうに恭介に問いかけた。
(これって、断ってもいいのか?)
断るにしても深窓のお嬢様といった浩美にどう答えていいものかと恭介が戸惑う。
その恭介に代わりに城戸が断りを入れようとするのを察した和明が、すかさず、
「それに、俺は千束に謝んなきゃならねぇしな。いままで、いろいろ悪かったな、千束」
「あ、いや」
「そいつ、お前の猫?」
「まぁな」
「ふ〜ん。猫なんて飼ってたんだな。浩美も猫が好きなんだよ。なっ」
「可愛いらしい猫ですね」
浩美の声にヴァレリーは鼻をひくつかせた。
浩美は触ろうと不用意にヴァレリーへと手を伸ばした。
その手が近づくとヴァレリーは耳を伏せた。
シャーッ
「きゃっ」
牙を剥くヴァレリーに浩美は慌てて手を引っ込めた。
ヴァレリーは浩美を睨みつけたまま、一瞬たりとも目を逸らさなかった。
恭介はぎょっとして
「す、すみません。いつもは大人しいんですが」
「い、いえ」
浩美の表情は引き攣っている。
「いまのは姉さんが悪い。猫は不用意に触られるのが嫌いだから」
志信がぼそりと言った。
和明がフォローするように
「浩美は俺ん家の猫に構う調子でつい、手を出したんだよ。驚かせて悪かったな、千束」
「ごめんなさい、千束さん。ごめんね、猫ちゃん」
「猫好きなら知らないはずなんてない」
志信のそのひと言に空気の流れが悪くなりかけたとき、松島が
「そろそろ、見学に参りましょうか」
と声をかけた。
城戸もこの流れではどうしょうもなく、和明と浩美の同行を黙認した。
当初は恭介と志信だけの予定だったが、招かれざる客の出現に城戸も同行することを決めた。
蒸留所へと続く扉が松島により開かれ、六人と一匹は深い緑の森の中へと歩いていった。




