第3話 麦芽
「つ、疲れた……」
いつも洗いざらしのシャツにデニムに着替えた恭介は執務机にぐったりとした身体を預けた。
「お疲れ様でございました」
足音もなく執務室に入ってきた藤堂が労う。
ワイルドベリーの描かれたティーポットから薫り高い紅茶がカップに注がれ、すっと恭介の前に置かれた。
「尾花が誉めておりました。あの一癖も二癖もある佐田会長に臆せずお会いになられ、認められと。よろしゅうございました」
(いや、俺の周りに妖怪が増えただけな気がするんだが……)
恭介はちらりとヴァレリー藤堂を盗み見た。
恭介に妖怪認定されたヴァレリーは身体を伸ばしていた。手足の先と首元からお腹にかけて白い毛並みを持つ黒猫はまるで凝り固まった身体をストレッチをしているようだ。
ウィスカーパッドに白い三日月模様がある顔を藤堂に向けた。
「あの狸爺は今しばらくは健在だな」
「さようですか。ではこのままで」
「ああ……」
ヴァレリーの短い鍵尻尾が床を一度叩いた。
「だが、次代にあれが来るようなら」
「サンライズは売りに出します」
「そうした方がいい」
いつもの意味深なヴァレリーと藤堂の会話に眉を寄せた。
(……いや、その会話で通じるって何だよ?)
ヴァレリーが執務机の上にひょいと乗った。
机に突っ伏していたこともあり、恭介は文字通り見下されていた。
「あれはお前の知り合いか?」
「あれ?……もしかして、佐田のことか?」
「そうだ」
「大学の同窓なだけだ。どうも馬が合わないんで適当に流してた。それが?」
「だろうな。あの男の匂いは好かん」
ヴァレリーは苛立たしげに尻尾で机を叩いた。
「珍しいな。お前がそこまで言うのは」
「軽佻浮華の見本だな。しかもお前を見下した態度はなんだ」
「ヴァレリー様、尾花はそれを黙って見ていたので?」
部屋の温度が急激に下がった。
(なんだ?この薄ら寒さは……せ、背筋が凍りそうなんだが……)
「この馬鹿が、目線で押さえた」
「……」
いつもは穏やかな藤堂の目がゾッとするほど冷たい。
「相手にすると面倒だったんだよ。それに、尾花さん、城戸さんにちくりとやってたじゃないか」
「恭介様、面倒だからと流して良いことと悪いことがございます」
藤堂の否とは言わせないほどの圧に恭介はたじろいだ。
(取り敢えず、頷いておこう)
「一条寺家の当主への侮辱は、使用人への侮辱でもございます。これからは少しお考えくださいますように」
「わかりました」
「後ほど、私からも先様に申し立てておきます」
「頼む」
ヴァレリーが短く答えた。
(いや、そこは俺が答えるところだろう?というか、申し立てなくともいいんじゃないか?)
内心で不満を並べていた恭介にヴァレリーが低い声で叱責する。
「恭介、無駄なプライドを捨てることと、必要なプライドを捨てることは違う。お前は今日、必要なプライドを捨てた」
ヴァレリーの言葉に恭介は己の失態を知った。
あの場にいたのは、同窓の千束恭介でなく、当主の千束恭介だった。
藤堂の言葉の意味がいまわかった。
「……すまん。気をつける」
「わかればいい」
ヴァレリーは床に飛び降りると、ベッドへと足を向けた。
ぎこちない空気に居た堪れない恭介だった。
退社時刻になるとサンライズの社内には家族への深い愛と感謝と心と心の絆を大切にする思いが込められた曲が流される。
その曲がかかると、社員たちは帰宅の準備を始めた。
和明は曲が流れるや、席を立った。
(どうせ数年後には俺の会社だ。誰に文句を言われる。)
この後、和明は目を付けていた女子社員を連れて、今夜は盛大に飲みに行く予定だった。
エレベーターの前で来るのを待っていると、別のエレベーターから城戸が降りてきた。
城戸は和明が立っているのを目にすると、
「和明さん、会長がお呼びです」
「いまからか?」
「はい」
(ちっ、爺さま、もう年なんだから隠居して、楽になりゃいいのに。これからだと、待たせるじゃないか)
「和明さん」
「わかったよ」
城戸の後ろ姿を睨みながら、和明は舌打ちを飲み込んだ。




