第2話 仕込み水
地上三十六階。全面ガラス張りのエレベーターを降りた瞬間から、恭介の胃は雑巾のように絞られていた。
案内された最上階は、高級ホテルのロビーかと見紛うほど静まり返り、ふかふかの絨毯が恭介の革靴を沈み込ませていた。
「こちらでございます、千束様」
城戸が、重厚なマホガニーの双開きのドアを開ける。
一歩足を踏み入れた恭介は、思わず息を呑んだ。
広い。
ざっと見積もっても、恭介の経営する探偵事務所が三つくらいは余裕で入る空間だ。
二面の壁が巨大なガラス窓になっており、そこからは東京駅のレンガ大屋根や、皇居の広大な緑が一望できた。
だが、何より恭介を圧倒したのは、その部屋の最奥、窓を背にして座る一人の老人だった。
サンライズホールディングス会長、佐田浩信
経済界の生ける伝説。そして、実淳の友。
白髪を綺麗に後ろへ流し、仕立てのいい三つ揃えのスーツに身を包んだその姿は、まるで自らの城に君臨する老王のようだった。
窓からの強烈な西日が、佐田の背後から差し込んでいる。
恭介の位置からは、彼の顔が逆光で深い影になり、その表情を読み取ることができなかった。
ただ、影の中から、射すような鋭い眼光だけが自分に向けられているのを感じた。
大抵の人間なら、この圧倒的な空間と逆光の威圧感に気後れし、ペコペコと頭を下げるか、あるいは自分を大きく見せようと無理に胸を張るだろう。
しかし、恭介は違った。
庶民として育ち、つい一年前まで自分が大資産家の血筋だとは知りもしなかった。
「金持ちの当主なんてガラじゃない」と本気で思っているからこそ、ここにある富や権力に対して、良くも悪くも執着がなかった。
(……あーっ無理。なんでこんな雲の上の人物が俺を呼んだんだ? じいさんの思い出なんて、なに一つないぞ。どうする?)
恭介は内心で冷や汗を流しながらも、深呼吸を一つして、その場に真っ直ぐに立った。
尾花が持っているキャリーバックが目に入った。
(あいつとトイレに駆け込んで、対策を練りてぇ……)
ヴァレリーにすがるような目を向けるが、「にゃん」とも「にゃぁ」とも言わない。
(薄情者、いや、薄情猫め)
「にやぁ」
恭介の心の嘆きが聞こえたのか、ヴァレリーが一声鳴いた。
まるで、
「お前はお前だろう。いまさら、繕っても仕方ないぞ」
と言っているかのようだった。
(それもそうだな……ボロが出るよりいいか)
うらぶれた探偵事務所の所長兼探偵、それが千束恭介だ。
いつもの俺でいい。
気分が楽になった。
恭介は卑屈になることもなく、かと言って傲慢に構えることもなく、ただ一人の「等身大の人間」として、老人の視線を真っ直ぐに受け止めた。
沈黙が、重く部屋を満たす。
佐田はピクリとも動かず、影の中から恭介の立ち姿、歩き方、そしてその揺るぎない両目を、じっと品定めするように見つめていた。
やがて、佐田の口元が、わずかにニィと歪んだ。
「――まあ、そこに座れ。喉が渇いたろう」
低く、しかし驚くほどよく通る声だった。
佐田は応接エリアの、重厚な革張りソファを顎で示した。
恭介が恐縮しながら腰を下ろすと、ローテーブルの上には、すでに二つのグラスが用意されていた。
厚みのある透明なクリスタルグラスに注がれているのは、お茶でも高級なコーヒーでもなく、ただの透明な「水」だった。
この部屋の主が、百五十年前に京都の仕込み水から始めた老舗のトップであることを無言で主張するような、透き通った水。
「ありがとうございます。失礼します」
恭介は緊張でカラカラだった喉を潤すため、素直にグラスを手に取り、一口飲んだ。
その瞬間、恭介の目がわずかに丸くなった。
(えっ?なんだ、この水旨すぎる)
一見、ただの水に見える。
だが、口に含むと驚くほど柔らかく、雑味が一切なく、体にすうっと溶け込んでいくように馴染んだ。
一口、また一口と飲む。
恭介は思わず、取り繕うような世辞ではなく、心からの言葉を口にしていた。
「……あ、旨い。すごく柔らかくて、体に染み込むみたいな水だ、じゃない、水ですね」
恭介は部屋の豪華さにも、目の前の老人の権威にも目を奪われず、ただ出された『水そのものの本質』を、素朴に、しかし正確に味わい、称賛した。
その言葉を聞いた瞬間、佐田の目がわずかに見開かれた。
「ここに来る連中は、中身ではなくブランドの価値を褒めちぎる。次に家具や絵画だ。水を褒めたのは、お前のじいさんとお前だけだ」
佐田の口調が僅かに和らいだ。
「ふん……。我が社の原点の水だ。お前、なかなかいい舌をしているな」
佐田はソファの背もたれに深く体を預け、初めて相好を崩した。
その笑った顔の皺を見て、恭介はハッとした。 写真でしか見たことのない、他界した自分の祖父。
かつてこの佐田と経済界で鎬を削り、共に戦ったという祖父の、不敵な笑顔にどこか似ていたからだ。
「喉が渇いてたので」
「謙遜するな。ここに来る連中は、この部屋に入ると私の顔色ばかり伺うか、あるいは部屋の調度品を値踏みするような目をする。だが、お前にはそれがない。……当主の座には興味がない、という噂は本当のようだな」
「えっ……あ、はい。俺なんかじゃ、祖父のような大層な投資や運用なんてできませんし、向いてないと思ってます」
恭介が正直に白旗を上げると、佐田は低く笑った。
その笑い声は、どこか楽しげだった。
(なるほどな。血は争えん。あの頑固で真っ直ぐだった爺の芯を、この孫もしっかり受け継いでいる。これは藤堂も苦労するな)
佐田はあの隙のない家令・藤堂を思い浮かべた。
仮に実淳に頼まれたとしても、あの男が仕える主人を間違うはずはない。
佐田の目に恭介の秘書が持っているキャリーケースが目に入った。
あの男もよく猫を連れていたな。そこも同じかと可笑しくなった。
(……確かに欲がない。それでいて芯は折れんか。)
これこそが、欲にまみれた連中の中で、最も信頼に足る『トップの器』だと、佐田は確信した。 ビジネスの算段は決まった。
この男が率いる家門となら、次の世代も強固な絆を結べる。
「よし、恭介くん。今日のところは帰っていい。お前の顔が見られて満足した」
「は、はぁ……」
佐田は立ち上がり、恭介に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「近いうち、今後の業務提携の件で『大事な書類』を直接渡したい。お互い、この部屋では肩が凝るだろう。次はもっと、風通しのいい場所を用意させる。秘書室からの連絡を待っていろ」
「あ、はい。分かりました。失礼します」
恭介は
(業務提携の書類か。やっぱり当主としての仕事をさせられるんだろうな。来るんじゃなかった……)
と、げんなりしつつ、深々と一礼して部屋を後にした。
その背中が見えなくなった後、佐田は机の上の電話を取り、楽しげにダイヤルを押した。
自分のデスクの端に置かれた、小さな写真立てに目をやる。
そこに写るのは、自分の二人の孫娘の姿だ。
(この真っ直ぐな男なら、ちゃんと一人の人間として見てくれるかもしれんな……)
そして佐田の頭の中で、もう一つの、より個人的で強引な目論見が音を立てて動き出した。
「――あ、私だ。工場見学をさせたい人物がいるんだ。予約は取れるか?ああ、その日か。よし、念のために予備の日も確保しとけ。いいな?」
電話を切ると佐田は年甲斐もなく、悪戯を仕掛けた子どもがその成果をわくわくとして待つ気分になった。
「さて……あいつはどんな顔をするかな」




