第1話 製麦
シャープな仕立ての濃紺のスーツ。高めに絞られたウエストと立体的な胸回りが、着る者に威厳を与えていた。
磨き上げられた革靴まで隙はない。
スタイルのいい千束恭介は、その高級スーツを違和感なく着こなしていた。
いつもどこかが跳ねている髪も今日は整えられいる。草臥れた探偵ではなく、誰が見ても一条寺家の若き当主だった。
だが、当人はこの堅苦し姿に辟易していたが。
(苦しい……洗いざらしのシャツとジーンズに着替えてぇ……)
恭介の後を付いて歩くのは、生前の祖父実淳の秘書をしていた尾花正治。
中肉中背ながら隙のない出で立ちをしている。
髪に白いものが混じってはいるが、実淳に鍛え上げられたその手腕は、恭介にとって心強い支えだった。
ヴァレリーが入ったキャリーケースを玉石の如く扱っていた。
サンライズホールディングスは創業百五十年の老舗酒造メーカーで飲料水からアルコール飲料まで幅広く手掛けていた。
サンライズの本社は都心のビル街に建つ三十六階建ての近代的なビルで、エントランスは三階部分までがガラス張りで明るい。大理石の床は陽の光を浴びて輝いていた。
現在の会長である佐田浩信はと実淳は旧知の仲であり、経済界で凌ぎを削った仲でもあった。
その佐田が、是非とも会いたいと申し入れてきたため、恭介は渋々本社を訪れていた。
(そんな雲の上の人物に会ってどうしろって?話題なんてないぞ……)
尾花が受付で訪問を告げている間、恭介は所在なげに立っていた。
応接用のセットが二、三見えるが、違和感があり過ぎて座る気にならない。
「佐田さん、本当にいいの?」
「私、一度行って見たかったんですよ」
「構わないよ。じゃあここで待ち合わせようか」
女性の場違いな嬌声と軽佻な声がした。
(あの声は……)
恭介は目を眇めてその一団を見た。
大学が同じだった佐田和明が女子社員だろう二人を連れて歩いていた。
佐田さんと呼ばれていた男も恭介に気が付き、嫌な笑いを浮かべて近づいてくる。
「もしかして、千束じゃないのか?」
「ああ」
「久しぶりだな」
「そうだな」
会いたくない人物の部類に入っていた男に会い、恭介の気分はまた下がった。
和明は大学在学中から親の威光と金をひけらかし、何かと恭介に突っかかってきていた。
恭介は相手にすると面倒くさいと適当に受け流していたのだが、その態度も和明には気に食わなかったのだ。
「なにかあるのか?」
「いや、呼ばれて来ただけだ」
「えっ?何、就職活動か?そういやぁ、お前、卒業後、探偵なんかしてたよな」
「ああ」
あからさまに嘲笑を含んだ物言いに恭介は内心でうんざりしていた。
(面倒くせー)
尾花が先ほどからきつい目で和明を睨みつけ、諫言したそうにしているのを恭介は目線で留めていた。
「儲からなくて廃業したのか?あっ、それでうちの会社の中途採用面接に来たのか?どうかなぁ……我が社は中途採用にはきびしいからなぁ」
見下したように言いながら、和明はじろじろと恭介を値踏みする。
恭介が着用しているスーツが自分のものより高級なのに気がついた。
(貧乏探偵のくせに)
「どこの貸衣裳屋のだ、そのスーツ。俺も借りに行くから店の場所を教えてくれよ。貧乏探偵だったお前には、支払いキツかったんじない……」
和明の言葉を遮るように、濃紺のスーツをきっちりと着こなした長身の男が前に立った。
男は恭介を確認し、恭介に向かい頭を下げた。
「千束様、お待たせして申し訳ないございませんでした」
「いえ、大丈夫です」
「会長がお待ちですのて、どうぞ、こちらへ」
「僭越ながら、城戸さん、社員教育を見直しされた方がよろしいのでは?」
和明の態度に我慢ならなかったのか、親切心からなのか、尾花が城戸に向かい笑みを浮かべていたが、その目は少しも笑っていなかった。
尾花が誰に着いているかを知っている城戸は、尾花ではなく、恭介に再度頭を下げた。
「重ね重ね、弊社社員の非礼をお詫び申し上げます」
「えっ、会長の第一秘書が、たかが中途採用の面談に来た奴になに頭下げているんですか、城戸さん」
城戸は姿勢を正した。
和明の問いには答えず、その場の空気を一変させるような威圧感を漂わせた。
「既にお昼休みは終わっている時間だと思いますが、なにをされていらっしゃるんですか?」
「い、いや、休憩時間が遅くなったんだ、それで……」
「そうですか。後のお二人も同じ理由ですか?」
「えっ……」
「私たちは………」
言い訳が見つからず口籠る。
「君たちは、部署へ戻りなさい。和明様もお願いいたします」
城戸は恭介に向き直ると、
「お見苦しいところをお見せしました。会長がお待ちです。どうぞ」
恭介たちを役員用エレベーターへと案内していった。
ドアを開け、恭介が乗るのを待つ。
その態度は会社にとり最重要人物が訪れた時のそれだった。
(はぁっ?なんだよ、なんで俺が秘書如きに指示されなきゃならないんだよ。それにあいつはただの貧乏探偵だろうがっ!)
和明はギリッと歯を噛んだ。
(気に入らない……)
閉じられたエレベーターの扉を憎々しげに和明は睨みつけていた。
「それとも、あいつ……ただの探偵じゃ、なかったのか」




