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黒猫ヴァレリーの事件簿Ⅱ  作者: 高橋 なぎ
琥珀色の嘘 
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プロローグ 大麦倉庫

レンガ造りの麦芽倉庫は、すっぽりと朝霧に覆われ外の喧騒をすべて吸い尽くされたように静まり返っていた。

天井には、かつて荷揚げに使われていた鉄の滑車が、黒ずんだ太い梁から牙のようにぶら下がっている。

足元には、天井近くまで積み上がった麻袋の影が、怪物のように長く伸びていた。

ひんやりと乾燥した空気の中に、乾燥麦芽の、トーストに似た甘く香ばしい匂いが濃く沈殿している。


「間違いないんですね」


ハイネックのヒートテックの上に、着古されたフランネルシャツを着た初老の男が、念押しするように言った。


「ああ。すぐにでも返しますよ。もう手は付けない」


仕立てのいいスーツに高級なウールコートを羽織った長身の男が答えた。

初老の男に比べると、随分と若い。


「本当に? 調べたら、これまでにも三回、同じことがされていて……」


「疑い深いな。誓って大丈夫。少しは信用して欲しいな」


コートの男は悪びれずに肩をすくめた。


「ですが、金額が金額ですので」


「大丈夫。明後日の退社時間までには綺麗さっぱり解決しているし、今後はもうこんなことはしない」


男は安心させるように笑みを浮かべた。だが、その目は笑っていない。


「……そうですか?」


いまひとつ信用しきれずにいることが、初老の男の声音から漏れていた。


「もし、同じようなことがあれば、これまでのことも含めて本社に報告していい。身の振り方は本社の判断に任せる。これなら安心だろう?」


「安心しました」


男の言葉に、初老の男の肩からようやく力が抜けた。


「さてと。金は早めに埋めないとマズいだろうな」


「そうですね。決算も近いですし」


「……」


「……本来なら、すぐに本社へ報告しなければならない案件です。前任者がどうであれ、これが公になったら、あなたがどうなるか……」


初老の男の眉間に、深い皺が刻まれた。


キンコン――。


分厚いレンガ壁を隔てて、敷地内のチャイムがくぐもって流れてきた。


「もうこんな時間だ。早く戻らないと」


「ああ」


「……絶対に返してくださいよ。じゃあ、私はここで」


初老の男は踵を返した。

背中を向けた男のあとを、コートの男が音もなく追う。その両手には、いつの間にか細いロープが強固に握られていた。


「福島さん……」


呼び止められ、初老の男が振り返ろうとした瞬間だった。

視界が反転する。

男の首に輪になったロープがかけられ、梁の滑車を経由して、一気に上方へと吊り上げられた。


「うぐっ……!」


足が宙に浮き、喉が潰れる。

初老の男は、首に食い込むロープに必死で手を伸ばした。指先をねじ込み、わずかでも隙間を作ろうと抗うが、強靭な力で引かれるロープはびくともしない。

狂おしいほどの苦しさのあまり、男はフランネルシャツの上から、自分の爪で首元を激しく掻きむしった。

首を絞めるコートの男は、さらに全体重をかけてロープを引いた。

やがて、絶望的な抵抗が弱まっていく。


ゆらり、ゆらり。


暗がりのなかで、初老の男の身体が大きく揺れている。

床に落ちた高窓からの光が、宙で悶える影を不気味に引き伸ばしていた。


(気づかなければ、良かったんだよ……)


荒い息を押し殺しながら、コートの男は完全に抵抗がなくなったことを確認した。

ゆっくりとロープを固定し、胸元から一枚の紙を取り出す。

ぶら下がっている男の、いまや動かなくなった足元に踏み台を置き、それをそっと置いた。

うっすらと麦の粉塵が積もった灰色の床に、白い紙がぽつんと取り残される。


『私は会社の金に手を付けてしまいました。 返済することができません。 本当に申し訳ありません』


すべてはそれで片付く。


コツ、コツ。


乾いた足音だけを残し、コートの男は何事もなかったかのように、静まり返った麦芽倉庫をあとにした。




一条寺家の庭に一本だけある桜の花芽が膨らんできた。

数日で開花するだろうと庭師が報告を上げてきたが、決裁書類を山程積み上げられた恭介には心持ちにする余裕はない。


(なんで、毎日、毎日こんなにあるんだよ。しかも、あの駄猫は昼寝してるし。寝る暇があるんなら、俺のサインの代わりに肉球を押せよ)


と詮無いことを心で思っているのは一条寺家当主の千束恭介。


恭介が駄猫と呼んだのは相棒とも言える黒猫のヴァレリー。

もはやおなじみの光景である。


「失礼いたします」


そう声をかけて執務室に入って来たのは、一条寺家の家令である藤堂だった。


「先ほど、サンライズの佐田会長から、お顔を見たいとのご連絡がござましたが、いかがされますか?」


「あの狸爺か……」


「はい」


「いい機会だ。行くと伝えろ」


「おい、俺は行くとは行ってないぞ」


「そうか、聞いておこう。藤堂、こいつに必要最低限の知識を渡しておけ」


「畏まりました。では、そのように」


「いや、聞けよ、俺の意思を」


「だから聞いたと言っているだろう」


(いや、そういう意味じゃ……俺を通り越して決めるって、おかしいだろう。そりゃ、仕事に関しての決定権なんてのはないけどな……)


ヴァレリーと藤堂の間で決められていくスケジュールに恭介は眉を寄せた。

ヴァレリーが欠伸をひとつして言った。


「恭介、近々、狸を見学に行くぞ」


「はあっ?」

本日よりヴァレリーと恭介の新しいお話を書かせていただきます。

楽しんで読んでいただければ幸いです。

本日は2話投稿となりますが、明日からは17:50の投稿予定となります。



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