第17話 澱下がり
「心配したぞ」
恭介はベッドを起こし座っている正樹に言った。
正樹が片手を上げ、
「すまん」
「本当に、驚かせるなよ」
「……まさか、自宅で襲われるとは思わなかったよ」
ため息をついて正樹はベッドに体を預けた。
頭のネット包帯から除く白いガーゼが痛々しい。
「まぁな……それで、どうした?」
意識が戻った正樹に呼び出された恭介は病室にいた。
モニターなどの医療器械は片付けられている。
病院のパジャマを着た正樹は血色も戻り、数日もすれば退院ができるとのことだった。
「あの時のことなんだが……」
「あの時って、襲われた時のことか?」
恭介の問いに正樹が頷く。
「俺も必死で抵抗したんだよ。そのとき、反射的に相手の腕を掴んだんだ。それで、揉み合っているうちにその人物の手首を爪で引っ掻いたのを思い出したんだよ」
「それ、警察には?」
「まだ言ってない。先にお前に言った方がいいと思ってな。恭介、それでなにかわかったのか?」
恭介は一瞬、考えるような素振りを見せたが、
「……金田さんのスマホが見つかった」
「どこにあったんだ?」
「ある人物が持っていた」
「そいつが犯人か?」
「いや、違う……遠藤、お父さんの件は事故じゃなかった」
正樹が息を飲み、指が掛け布団を握る。
言葉を発しようとするが声がでないのか、唇は動くだけだった。
「金田さんの件に関しても同じ人物が絡んでいると思う」
「だ……誰が……」
「遠藤……これは俺の推理だ。まだ確かめてもいない。だから、間違っているかもしれない。それでもいいか?」
恭介は静かにだが確認を取るように正樹に尋ねた。
正樹は
「ああ」
「だったら、一つだけ教えてくれ」
「なんだ?」
「お前が引っ掻いたのは、右手首だったか? 左手首だったか?」
「無我夢中だったからな……俺のこっちの手だから、左だ」
代々「稜線」や「騎将」を作り出してきた酒蔵の中は漆喰の白壁や杉の床板に醪と温泉の匂いが染み付いていた。
ぷつん……
ぷつん……
ここ数日で、タンクから聞こえる発酵音は激しいものから、静寂の中に「ぷつん」と響く穏やかな音へと変わっていた。
蔵の中で溜まっていた高濃度の二酸化炭素が抜け米の甘い香りと瑞々しい果樹の香りが融合した芳香が漂ってくるようになった。
表面を覆っていた分厚い泡の層が消えている。代わりに磨き込まれた鏡のように澄んだ地肌が見えた。たまにぷつんと底から水面を目指して気泡が上がってくる。
出島はタンクの中の状態を長年培ってきた杜氏としての目でなにかを探るように覗き込んだ。
(搾るか……いや、もう少しか……)
早すぎれば、アルコール度の低い淡白なものになる。反対に遅すぎれば、酵母の自己融解からなる雑味や生臭さが出たものになる。
泡、地肌、香り。
(……まだだ)
この酒蔵を任された杜氏としてのプライドと経験が良しとしない。
油単をしてこの蔵の縛りできっちり蓋をした。
階段を降りていくと、階段の脇で高村が立っていた。
背に遠藤という染め抜きをした法被。
蔵人は背中だけだが、頭や麹氏、酛廻りといった役が付くと片襟にも遠藤と染め抜かれる。
杜氏の出島は両方の襟に遠藤と染め抜かれた法被を着ていた。
「明日、搾りを始めてもいいんじゃないですか?」
当然といった風に高村はにこやかに確認してきた。
「いや、後、一日、二日寝かせた方がいい」
「そのくらいなら問題ないでしょう」
出島が眉間に深いシワを寄せた。
「いま搾ることもできる。だが、それは『上』だ。寝かせれば『最上』となる」
「遠藤が出せば、酒は酒です。」
「だが、それは『稜線』じゃない。『騎将』でもない。ただの酒という飲み物でしかない」
「ただの酒でいいじゃないですか」
「頭の台詞か?」
苦々しい表情を出島は浮かべた。
「呑み手が全員杜氏じゃなし、詰めて置いていれば、大丈夫ですよ。些細な違いなど、所詮はわかりませんよ」
「高村……」
「一日早く搾れば、一日早く次が仕込める。それだけ利益が出るんです。」
「愚かな」
「愚かで結構。私には私のやり方があるんです。それより、出島さん、そろそろ杜氏を引退されてくださいよ」
「引き継いでからだ」
「側で見てきましたから大丈夫ですよ」
「見ただけでなにがわかる……受け継いだ伝統が、仕込み方が『遠藤』の酒を造ってきた。それがわかってない。やはり、お前では駄目だ」
出島の身体全体で蔑むような拒絶に、高村の脳裏に、あの日の光景がよぎった。
ぶるぶると両手が震えた。
「あんたも、伝統、伝統っていうんだな……」
高村が低く呟き、仄暗い光を宿した目で出島を見る。
ふらりと前に出て、出島との距離を縮めた。
高村は出島を睨みつけると、
「俺の力量のどこが不満だ、どこが気に入らない……あんな青二才の圭吾にどこが劣っていると言うんだ!」
「お前は”酒を造れる”が”育てられない”、それが杜氏と蔵人の違いだ。それがわからん時点でお前に杜氏は無理だ」
出島が睨み返し、泰然と高村を否定した。
「そうですか……」
高村の両腕が出島に伸びた。
高村の胸が上下し、呼吸が荒くなっていく。
その目には、杜氏を目指した男の理性は、もう残っていなかった。
「さっさと自分で澱下がりすれば良かったのに……」
出島の身体がじりじりと後に下がる。それを暗い感情が浮かんだ目で高村は見ている。
「米汁になったら排水処理しなければならないじゃないですか……面倒なんです」
出島の首に高村の手が伸びていく。
音もなく出島の首に添えられた。
まるで、そこに元から置かれていたかのように。




