第13話 澱下がりの兆し
精進おとしが終わった後、一度、咲の実家に戻った学は、会社への土産を買うと言って外に出た。
正樹の顔を見ていると、計画を潰されるかもしれないという怒りで胸の辺りがむかむかするのだ。
この辺りに飲める場所は温泉街以外では少ない。学は温泉街へと足を向けた。
雪掻きがされた道を歩いていると温泉独特の硫黄の匂いが鼻をついた。
明日か明後日には静岡に帰らなければならない。
少しは飲んでもバチは当たらないはずだ。
安くて量の多い土産を買う。上司へは見栄えのいいものを買った。
土産の入った紙袋を持ち、少し早いが約束した店に行く。
温泉街にある古民家風の居酒屋。個室と衝立で仕切られた半個室のあるその店で、学は個室を選んだ。
若い店員がお絞りとメニューを持ってきた。
少し悩んで、先に飲むことにした。
「ジョッキの小と芋煮を」
「生小と芋煮ですね。畏まりました!」
店員は元気よく言った。
「あと、連れがくるから」
法要の席で高村を誘ってある。
苦労人で人当たりのいい高村を学は気に入っていた。
法要の席でも、精進おとしの席でも正樹は自分が跡を継ぐとは言わなかった。
ならば、まだチャンスが残っているのではないか?と学は思った。
首の皮一枚。
高村に相談してみよう。
彼ならきっと賛同してくれるはずだ。
なにかいい案を出してくれるかもしれない。
高村だって本音は正樹より俺の方がいいと思っいるに違いないんだ。
「お待たせしました」
テーブルにジョッキと付き出し、芋煮が置かれた。
学は一口飲む。
気分が浮上したせいかビールが旨く感じた。
(もう一杯くらいいいか)
追加で注文しようとして、
(これから酒蔵の主になるんだ。主なら日本酒を飲まなきゃな)
「騎将を燗で」
残り少なくったジョッキを空けて学は日本酒が来るのを心待ちにしていた。
「すみません。待たせましたか?」
「いえ、大丈夫。お先にやってましたから」
喪服を普段着に着替えた高村は脱いだダウンジャケットを片手にしていた。
ダウンジャケットを壁のフックに掛け、学の向かいに座った。
学の前には徳利がニ本並んでいた。
「おや、日本酒ですか?」
「まぁ、造酒屋の主になるなら味を知っておかないとと思いましてね」
「それはいい心掛けですね。それでなにを飲まれているんですか?」
「あーっと、なんだけっな?」
赤ら顔した学はメニューを開いた。
「ええっと……ああ、あった。これだこれ。騎将ってやつです」
高村の手が微かにぴくりと動いた。
「この酒は燗にすると旨いですよ」
「そうですか……」
「高村さんもどうですか?」
「私は今日は軽めにしておきますよ」
高村は店員を呼んだ。
「そう思うでしょ、高村さんも」
「そうですね。誰だって、自分ならと思いますよ……ああ、まだ、早いですね。どうです、河岸を変えませんか?そちらでゆっくり話ましせんか」
学は高村が自分を理解してくれたことに嬉しくなる。
もう少し高村と飲みたい。
高村と連れ立って学は店を変えた。
「あぁっ、いい湯だった」
大浴場に行っていた恭介が襖を開けた。
浴衣に丹前を羽織り、手には旅館のタオルを持っている。
内風呂もあったが、恭介はどうしても宿泊客が浸かり和気あいあいとする大浴場に行きたかった。
部屋の中ではヴァレリーが薄手の布の上に寝そべって藤堂からブラッシングをされていた。
その顔は蕩けきっていた。
「おかえりなさいませ」
ブラッシングの手を止めて藤堂が言う。
「ふん、帰ってきたか」
「ヴァレリー様、梳き足りないところはございませんか?」
「大丈夫だ。すまないな」
藤堂は丁寧にブラシに付いた毛を取り除く。
「いい湯だったぞ、お前も入ればいいのに」
「ご希望でしたら、直ぐにご用意させていただきますが?」
「風呂は不要だ」
恭介は藤堂の言葉に、岩風呂に浸かり、岩に顎を載せて、「極楽、極楽」と言っているヴァレリーを想像した。
ヴァレリーの頭には小さな白いタオル。
(見てみてぇ……)
だからつい、
「そう言うなよ。いいぞ、温泉は。なんなら俺が一緒に入ってやるぞ」
ヴァレリーは冷たい目をして恭介を一瞥した。
「どうせ、くだらんことでも考えたんだろう。そんな暇があるならスマホを見つける算段でもしろ」
「……それなんだよな……」
恭介はドサリと胡座をかいて畳に座った。
スマートフォンを片時も離さなかった金田だから遠藤の敷地内あると当たりをつけた。
正樹と金田が使っていたロッカーや机を探したがスマートフォンは無かった。
頭を搔く恭介を見ていたヴァレリーが、一つ息を吐いた。
(……仕方ない……)
「恭介、耳を貸せ」
ぶるりと身震いして学は目を覚ました。
酒で暖まっていた身体は完全に冷えていた。
学は酒のせいでぼんやりとしていた。
草息と土の感触。
目の前には冬の星空が見えた。
井戸と小さな祠や蔵も見える。
(なんでこんなところで寝てるんだ、俺?凍死する気なんてないぞ……)
学は半身を起こした。
(うん?)
手は棒のようなもの握っていた。
見ると大きな杓文字みたいなものだった。
「なんだってこんなものを……」
学はそれを放り投げようとしたとき、サンダルを履いた男の足に気がついた。
ご同輩がいるようだなとくすっと笑った。
「もしもし、風邪をひき……」
身体を揺すり起こそうとして、寝ている男の顔を見た。
月を隠していた雲がそっと横に動く。
月の明かりが周囲を照らす。
男の血が額を伝い地面に流れていた。
「えっ?正樹……う、うわぁっ!!」
学は飛び退り、腰を抜かした。
はっとして、手に持っていたものを見た。
木製の大きな杓文字のような分師には血がべったりとついていた。
慌てて放り投げる。
カランカランと軽い音が暗がりに広がった。
(なんだ?どういことだ?)
学は地面に尻もちをついたまま呆然となった。
カツ……
カツ……
「正樹、そこにいるの?」
咲が蔵の角から現れた。
咲は座り込んでいる学の姿に少しだけ驚いた。
「あなた、こんなところで……」
学に近寄ろうとして、血を流し倒れている人物に気がついた。
「ま、正樹!?」
「さ、咲、ち、違う……」
夫の学が自分に手を伸ばしきた。
手には血が付いていた。
「いやあっっ!!」
咲の切り裂くような悲鳴が中庭に響き渡った。
学が正樹を襲ったとの知らせ。
その一報が齎されたのは、朝食を終えた恭介が遠藤に向かおうと靴を履いた時だった。
「遠藤までが……?」
「おい、急ぐぞ」
恭介はヴァレリーの声に意識を引き戻された
「あ、ああ……」
恭介はヴァレリーのキャリーバッグを抱えて走り出した。




