第10話 高泡の揺らぎ
「そろそろ向こうに帰らないとな」
学が布団の中から呟いた。
明かりを落とした部屋で枕元の照明だけが淡い中間色を灯している。
「そうね。あの子たちの学校もあるし、あなたにも会社があるものね……」
隣に並んだ布団にいる咲が学の方に寝返りを打った。
「……けど、あたし……」
「わかっている。遠藤のことが心配なんだろう?」
「ごめんなさい」
学は手を伸ばし、労るように咲の布団をぽんぽんと叩いた。
「あなた……」
「なぁ、咲。考えたんだが、いっそのこと信頼できる人物にここを任せるのはどうだ?」
「なにを言ってるの!父が遺した遠藤を他人に譲るっていうの!?」
咲の声に怒りが滲む。
「そうじゃなくて、後継を決めるのにまだ時間がかかりそうじゃないか。酒は生き物だ。面倒をみてやる人間が必要だ。それに、ここの酒を楽しみにしている客のためにも、何時までも閉めているわけにはいかないんじゃないか?」
「それは……」
「だから、跡取りが決まるまでの間だけ、酒蔵を任せるんだ。決まったら、返してもらえばいい……そうだろう?」
「そうかもしれないけど……」
「遠藤には、信頼できる従業員がいるじゃないか」
「……そうね、考えてみるわ」
「そうしてくれ」
学は安心したというように咲を見て微笑んだ。
「でも、あなた、いやに遠藤のことを気にするのね」
咲が不思議そうな表情をした。
咲の言葉に学はぎくりとする。
「それに、酒は生き物だ。面倒をみてやる人間が必要だなんて、よく知っていたわね」
「そ、そりゃ、曲がりなりにも酒蔵の娘を妻にしたんだ。俺だってそれくらいは知っているさ」
「ふふふ、まるで父みたいだったわ」
「そ、そうかい。さぁ、明日は初七日の用意もあるんだ。もう寝ようか」
「そうね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
学は咲に背を向けると壁に向かいほっと安堵の息を吐く。
危なかった。
遠藤を手に入れる計画のためにも、いま、咲に不信感を持たれるわけにはいかない。
(もう一押しだ。そうすれば……)
学は口元だけをわずかに緩めた。
学は静かに目を閉じた。
楽しい夢を見るために。
(どうしたものか……)
正樹は自分の部屋で壁を睨んでいた。
微かな酒の匂いがする。
(懐かしいな……)
隣の父の部屋だった場所は、妙に静かだった。
扉は閉じられたまま、もう二度と「正樹」と呼ぶ声は聞こえない。
正樹自身、遠藤を継ぐ気ははなからなかった。大学にも進学せず、遠藤に就職し、働いてきた圭吾にと考えていた。
圭吾を跡取りにすることで揉めるとは思っていたが、姉の咲があれほど激昂するとは思わなかった。
弁護士の神崎にも相談したが、姉が持つ株は議決権を行使できるだけのものがあり、納得させないと難しいと言われた。
「親父ーっ、てめぇ、決めてから逝けよ。息子の俺に丸投げしやがって……」
悪態をついた後、正樹は大きくため息をついた。
「……初七日も揉めるんだろうな。」
誰もいない部屋に、その独り言だけが静かに消えていった。
冬の朝の柔らかな陽射しが、すりガラス窓を照らし、どうにかして入り込もうとしていた。
正樹は食卓で朝食を摂っていた。
ご飯、卵焼き、細かく刻んだ野菜と薬味を醤油などで和えた山形名物のだし。湯気を立てている味噌汁。
懐かしい故郷の朝ご飯に箸が進んでいた。
「おはよう」
学が新聞を片手に食卓に座った。
「おはようございます」
「ふわぁっ……いかんな。仕事じゃないと気が緩んでしかたない」
「わかります。姉さんは?」
「明日の初七日が終わったら、子どもたちを一度あちらに返すからその準備をしてるよ」
「そうですか。義兄さんは大丈夫なんですか?」
学は運ばれてきた朝食に箸を取った。
「俺もそろそろ向こう帰らなきゃならないよ」
「すみません。長く休んでもらって」
「気にしないでいいさ。それより、咲がすまないな。気を悪くしないでくれよ」
「いや、義兄さんが謝ることでもないですから」
「遠藤のことで、あいつの言い分もわかってくれるとありがたいんだが……」
学が正樹の様子を伺うように言った。
「それはわかっています。だからもうね、俺が継いで、圭吾に任せようかと」
「えっ?」
耳を疑うような言葉に学は息を止めた。
「俺が継ぐ分には、姉さんも文句は言わないだろうし」
「あっ、いや、正樹君……」
学はなんとか声を絞りだしたが、
ヴヴヴヴヴヴ……
正樹のスマートフォンが着信を告げた。
正樹は着信の相手を見ると
「ちょっと、すみません」
そう言って、正樹はスマートフォンを取り、席をたった。
残された学は計画が駄目になりそうになり、目の前が歪んだ。
あと少しだった。
あと少しで上手くはずだったのに。
まさか、正樹自身が継ぐと言い出すなんて。
(高村さんに相談しないと……)
味噌汁が冷めることも忘れて、学は箸を握りしめたままだった。
発酵時期に休みはない。
二十四時間発酵具合を見なければならないために誰かしら残っていた。
朝、事務所に出勤してきた高村は、計画表を机に広げ、同時に帳簿も広げる。
さっと目を通して、閉じた。
高村は窓の向こうの酒蔵をじっと見つめた。
「時間がないな……」




