第9話 醪の底に沈む影
恭介は旅館の離れの特別室で贅沢を味わうこともなく、決裁書類を前に奮闘していた。
(こんなところにまで、持ってこなくてもいいだろう!腕が痺れそうだ……肩が凝ってゴリゴリだろうな、きっと……)
内心で文句を垂れる。
「温泉にお入りになれば、手の痺れや凝りもとれますよ」
恭介の内心を見透かしたように藤堂が笑みを浮かべていた。
(……このひと、マジで人間か?)
ごくりと喉を鳴らした。
ペンを持った手に力が入った。
サインする速度が自然と上がる。
「藤堂」
座布団に寝転んでいたヴァレリーが片目を開けていた。
呼ばれた藤堂が、ヴァレリーの側に膝をついた。
藤堂をヴァレリーがじっと見る。
「畏まりました」
(はあっ?いまなんか指示したか?)
「少し出て参りますが、よろしいでしょうか?」
「ああ。こいつは私が監視しておく」
そう言って、ヴァレリーが了承した。
(監視って、なんだよ!)
「恭介様もよろいでしょうか?」
理由もわからずに恭介は了承した。
ヴァレリーと藤堂のいつもの謎のやりとり。
内容を聞くのが怖かったし、反対したところで意味は無かった。
俺って、一応、名ばかりだが当主だよな?と思わなくもないが。
「ああ、それと、手土産が必要だろうから少しばかり時間を取っていいぞ」
「ありがとうございます」
藤堂が笑みを浮かべ、頭を下げた。
部屋を出ていくその後ろ姿に、恭介は何か引っかかるものを感じ、首を少し傾げた。
「どうした?」
「いや、なんだか藤堂さんの足取りが軽いっていうか、ちょっと機嫌がいいというか……」
ヴァレリーが驚いたように目を丸くした。
「恭介、お前……本当に成長したみたいだな……」
ヴァレリーが成長を見守る師のようにしみじみ呟いた。
「猫に成長したって言われる俺って、終わってないか?」
「安心しろ、既にお前は終わっていたから今更だ」
「……それで、藤堂さんは?」
「調べものだ」
「それだけか?」
「ああ見えて、藤堂は日本酒の愛飲家だ。有名処の地酒や銘酒を味わい集めるのが趣味だからな。少し時間をやっただけだ」
「意外だな。てっきりワインとかウィスキー党かと」
「人とは意外なものだ。それが面白くもあり、哀しくもある」
そう言うとヴァレリーは一度目を伏せた。
「それよりもだ。恭介、手が止まっているぞ。さっさと決裁しろ」
ヴァレリーに睥睨され、恭介は急いで決裁書類の処理を再開した。
「遅くなりました」
藤堂が部屋に戻って来たのは恭介が最後の一枚にサインを書き終えたときだった。
藤堂は決裁が終わった書類を寸分のズレもなく纏めた。
白い手袋をした手が丁寧に紙袋にしまった。
「それで?」
藤堂は向き直るとヴァレリーの問いに答えた。
「押収品の中には無かったとのことです」
「そうか……」
「おい、いい加減に教えろよ、ヴァレリー」
「恭介、先ほどの言葉は撤回する。お前は成長してない」
やれやれとヴァレリーはため息を吐いた。
「はぁっ?」
恭介は頓狂な声を上げた。
「あの金田という事務員は誰かを脅していた」
「ああ。だから金を要求して、殺されたんだよな」
「そうだ。なら脅しの材料はなんだ?どこにある?」
「それがわかれば苦労しないって」
「お前、まだわからないのか?」
「悪かったな。俺は猫ほど頭が回らないんだよ」
「いい年をした男が拗ねる姿は可愛くはないな。見苦しい」
「猫らしくない猫よりはマシだ」
「なんだと?」
「あぁんっ?」
「お二人とも、論点がずれていますよ」
軌道修正を促す藤堂の静かな声。
「ヴァレリー様」
「すまない」
「恭介様」
「反省します」
恭介がぼそりと「怖っ」と呟くと、ヴァレリーが「こいつが一番怖い」と漏らす
「なにか?」
藤堂の声にヴァレリーと恭介は身を縮めた。
藤堂は一つ息を吐くと、
「私は警察に行き、警察が押収した金田様の遺品を確認して参ったのです」
「遺品……」
「はい」
恭介は金田の姿を思い返した。
仕事中もスマートフォンを弄り、同僚に注意されていた。
葬儀のときでさえ、手にしていた。
そういえば――。
「あれ……?」
恭介は顔を上げた。
「もしかして、スマホか?」
「ようやく気づいたか」
ヴァレリーが呆れ混じりに小さく息を吐いた。
「そうだ。あれだけ手放さなかったのに遺品にないのはおかしい。隠したのか、それとも誰かが持ち去ったのか……」
ヴァレリーは窓の外の坪庭をじっと見つめた。
「澱は、取り除かれたのか。それとも、まだ底に沈んでいるのか……」
ヴァレリーは窓の外の坪庭にじっと見つめた。
「どうするか……」
男の手の中には一台のスマートフォンがあった。
持ち主は金田。
大事そうに持っていた。
きっと大事にする理由がここにある。
腹が立ったので持ち去った。
「どうする……」
持っているだけで危険だ。
捨てるべきか。
だが、今さら捨てれば、それもまた証拠になる。
男はスマートフォンを握り締めた。
その手元で、ピンク色の房が小さく揺れた。




