第5話 蒸米の影に潜むもの
寒月の月明かりが、静まり返った酒蔵に影を落とした。
酒蔵と酒蔵の狭い路地。
月明かりも届きにくいその場所に、金田は男を呼び出していた。
「ねぇ。あの日のこと、警察に全部話してもいいの?」
金田は手にスマートフォンを持ちながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、男の顔を覗き込んだ。
「何のことだ」
男は目を反らした。
「しらばっくれても駄目よ。私、見たんだもん」
金田は不敵に目を細めた。
「吃驚したわ、サボってスマホ弄ってたら、蔵の中から大きな音がするんだもん。おかげで、打ち込んだメッセージ消しちゃったのよ、最悪よ」
金田はちょっと男を責めるような口調になった。
「文句のひとつも言ってやろうと、蔵の中を覗いたら……あなたがいるんだもん。倒れてた社長を助けるわけでもなく、冷たく見下ろしてさ。ホント、怖かったわ」
その口調は少しも恐怖など感じてはいなかった。反対に誂うような口調だった。
男は何度か唇を湿らせると、
「それで、要求は何だ」
「話が早くて助かる〜簡単よ。口止め料として、三百万。明後日迄に用意しといてよ」
「三百万だと?」
「そう。明日までにって言わないところが優しいでしょ」
「……それで黙るんだな」
「そうね。一ヶ月くらいなら忘れてあげる」
「一ヶ月?」
「そう。思い出さないように毎月お薬を買わないといけないし〜」
「そんな金があるはずないだろうが!」
「あるわよ」
金田は含みを持たせるように言った。
「お酒、ネットにあげれば、定価の十数倍になるのよ。本数を何本か抜いておくのあなたならできるわよね」
「お前……」
「ちゃんと証拠だってあるわ」
勝ち誇ったように金田はニヤリと笑った。
男は両の拳を握りしめ、ぶるぶると震えていた。
「はあっ、わからん」
十畳程の和室で恭介は畳に寝転がり、天井を仰いだ。
ふわりとい草の薫りが鼻を掠めた。
座椅子の座布団の上ではヴァレリーが香箱座りをしている。
天童温泉の高級老舗旅館の離れは、一泊十数万の特別室となっていた。
客室は総平屋建て数寄屋造りとなっており、そこかしこに侘び寂びの世界観を伺わせる日本の伝統美を配していた。蔵王石を使った内風呂、露天風呂、半露天風呂と風呂だけでも三風呂あった。
「恭介様、先ずは、お茶でもお召し上がりください」
藤堂が一条寺家から持参した玉露で淹れた日本茶を屋久杉の一枚板の座卓に静かに置いた。
純日本家屋の和室に執事姿。普通なら違和感を覚える光景だが、藤堂だと違和感はなく、予定調和の如く当て嵌まっていた。
恭介は起き上がると茶を一口飲んだ。熱くもなく冷たくもない。飲み頃の温度で玉露特有の甘味が口に広がった。
ヴァレリーがひとつ伸びをして、
「なにが、わからん」
「全部だよ。事故じゃないって言うけど、何が決め手なんだ?」
「お前の友人の事故状況説明を思い出してみろ」
「……二階から転落して、仰向けに倒れていた、だっけな」
「そうだ」
「それで?」
ヴァレリーはこれ見よがしにため息を吐くと藤堂の方を向いた。
「藤堂」
「はい」
藤堂が返事をした刹那、恭介の両肩を強く押した。
無防備だった恭介は後へ仰向けに倒れた。
「失礼いたしました」
恭介に向かい、藤堂が優雅に頭を下げた。
「……わかったか」
呆然としていたが、恭介は勢いよく起き上がる。
「そうか……前から押されたから仰向けになったのか!」
「そうだ。自分で足を踏み外した人間は、咄嗟に手摺りを掴もうと身体を捻る。仰向けのまま、真っ直ぐ落ちることはない。多分、遠藤氏は誰かに不意に前から押され、落ちたんだ。変なところで匂いが消えていた理由もつく」
「だから、お前は事件と言ったんだな」
ヴァレリーは一度目を閉じて、また開けた。
正隆が事故ではなく、誰かに突き落とされたことはこれで分かった。
事故ではなく事件。
誰かが正隆を死に導いた。
これで死因を調べてくれと言った正樹に伝えることはできるが、誰が突き落としたのかは不明だった。中途半端な報告はせず、最後まで調べてからの報告にすることにした。
深夜の酒蔵は、昼間の活気が嘘のように静まり返っていた。
パチパチ、プツプツ……
暗闇の奥から聞こえるのは、仕込みタンクから湧き上がる不気味な発泡音だけだ。
退社時間間近。
男が小声で言った。
「夜、酒蔵のタンクの上に金を置いておく」と。
ちらっと男の顔を見て、自分が薄っすらと笑ったのを思い出す。
「あった……!」
一番奥のタンク。それを覆う分厚い木綿の布――油単の真ん中に、茶封筒がぽつんと置かれていた。口の開いた封筒からは、数枚の一万円札が顔をのぞかせている。
タンクの縁に足をかけ、身を乗り出す。手を伸ばせば届く距離だ。
指先が封筒に触れた、その瞬間だった。
「あ」と思った時には、布がずりりと滑り、金田の身体はバランスを崩していた。
金田はタンクの縁を掴もうと右手を伸ばした。だが、混乱しているためか指先は、上手く縁を掴めなかった。
金田の身体を支えるものは何もなかった。
暗闇へ落ちていく。
タンクに充満している目に見えない濃厚な二酸化炭素の塊が金田の顔を包み込んだ。
「カハッ……!」
悲鳴を上げようと開いた口に、酸素のまったくない絶望の空気が飛び込む。
肺が燃えるような錯覚。
脳の全機能が一瞬でシャットダウンする。
金田は声を上げることも、もがくこともできず、ただの一呼吸で意識を失った。
とぷん。
鈍い音が響く。
意識を失った金田の身体は、油単とお札の数枚を巻き込みながら、湧き上がる乳白色の醪の中へと、静かに沈んでいった。
後には、主を失った暗闇と、何事もなかったかのようにプツプツと鳴り続ける発泡音だけが残された。
金田が落ちてから、数時間が経過していた。深夜、酒蔵の勝手口から、足音もなく男が滑り込んできた。
懐中電灯の細い光だけが、静かな蔵の中を横切った。
一番奥のタンク。仕掛け通り、油単は外れ、暗黒の口がぽっかりと開いていた。
覗き込むと、そこには強烈な二酸化炭素の塊が澱んでいる。
男は小さく息を吐き出すと、そこからは完全に呼吸を止めた。
一呼吸でも吸えば、自分も金田と同じ運命をたどる。
ライトの細い光が、醪の表面を照らす。
乳白色の泡の海に、金田の姿はすでに見えない。
だが、彼女が巻き込んで落ちた一万円札が数枚、ドロリとした醪の上にプカプカと、まるで汚れた花びらのように浮いていた。
(回収しないと……)
男は壁際に一列に並ぶ櫂棒に手を伸ばした。
素手で触れば醪が汚れる。
何より自分の手が届かない。
男は慣れた手つきで一番端の櫂棒を取ると、タンクの口へと差し込んだ。
プツプツと湧き上がる泡を乱さぬよう慎重に櫂棒を動かす。しかし、その動きには焦りが滲んでいた。
醪まみれになったお札を一枚ずつ、すくい上げていく作業は思ったより時間がかかった。
ドロリとした白い醪を滴らせるお札を、持参したビニール袋へと滑り込ませた。
(これで、金はすべて回収した……早くここを出なければ……)
男は呼吸をこらえたまま、急いで櫂棒を元の位置へ戻した。
そのとき――
濡れた手袋の指先が、櫂棒にわずかに触れた。
コン。
微かな音が響く。
男は、それに気づかなかった。
男は再び息を止め、外れていた油単をタンクの口に被せた。
暗闇の中、男は指先の感覚だけで、この蔵伝統の結び目を再現していく。
紐の引き具合、布の張り。油単は数分前まで人が落ちたとは思えないほど、美しく張り直された。
「ふう……」
安全な位置まで下がり、男は初めて深く息を吐いた。
すべては完璧だ。
そう確信して男は蔵を後にした。
男のポケットの中、ビニール袋の口から、醪で濡れたお札がほんの少しだけはみ出ていた。
男が階段を降りようと身を翻したその瞬間。
醪の重みで、滑りやすいくなっていた一万円札が一枚だけ、音もなくポケットから滑り落ちたのに男は気が付かなかった。
ひらり……
と舞ったお札は、暗い床の隅へと吸い込まれていった。
朝、仕込みの時間。
肌を刺すような空気は澄み切っていた。
蔵人が酒蔵の扉を横に滑らした。
(今日は一番乗りか)
良いことがありそうだ蔵人は思った。
酒蔵独特の匂い。
二階に上がり櫂棒を手に取ろうとしたとき、一列に並んでいるはずの櫂棒が一本若干乱れていることに気がついた。
「誰だ、まったく」
端の櫂棒をきちんと戻した。
タンクの口が三つならんでいる。
一階に置かれた数メートルある巨大な仕込みタンクの口が、ちょうど二階の床の高さにくるように設計されていた。
(うん?なんだ、油単が……)
一番奥のタンク。
それを覆う木綿の布は、いつもと変わらぬ、この蔵伝統の美しい結び目でしっかりと固定されていた。
だが、毎日それを見ている蔵人の目には不自然に映った。
仕込みの段階に対して、布の張り具合がほんのわずかに、突っ張っているように見えた。
(ふうっ。やれやれ、今日はおかしなことが続くもんだ。ちっとも良いことがないじゃないか……)
内心で呟いた蔵人は、布を直そうと紐を解き、厚手の木綿をペラリとめくった。
その瞬間、閉じ込められていたツンと鼻を突く強力な炭酸ガスが、容赦なく顔を直撃する。
蔵人は思わず息を止め、顔をしかめながら、発酵途中の醪の様子を覗き込んだ。
湧き上がる乳白色の濃い泡のなかに、なにかが混じって浮いていた。
プツプツ……
空間に響き渡る、不気味なほど生々しい発泡音。
その厚い泡の層が、ゆっくりと割れた。
炭酸ガスに押し上げられるようにして、白い指先が不自然に浮き上がってきた。
!!
蔵人の喉から悲鳴にならない息が漏れた。




