第1話 蔵入り前の静けさ
スコットランド建築や英国の別荘建築に近い一条寺家の外観は素朴でいて重厚だった。
煉瓦造りの本館建物を囲む西洋庭園は四季折々の薔薇が美しく咲いくように配置され、今の時期は冬薔薇が咲いている。
千束 恭介は残念ながら今日もその美しい庭園を鑑賞することもなく、執務室で書類にサインをしていた。
恭介の手足は長く、切れ長の目に通った鼻筋と整った容姿をしている。だが、身なりに無頓着なせいで、その容姿が冴えない。跳ねていた黒髪がその証拠でもあった。祖父一条寺実淳の莫大な遺産を相続したいまでも洗いざらしのシャツとデニムパンツを愛用していた。
(マジで肉球登録してぇ……いや、もう鼻紋でもいい……)
サインのし過ぎで痛む手を動かしながらそう思う。三十近い身体には地味に辛い。
実際にしようものなら、どんな目に会うか。きっと、二十三時間働かされ、苦手な社交の場にどんどん出席させられると容易に想像がつく。
はぁっと恭介はため息を吐いた。
相棒のヴァレリーはと見ると、窓から射し込む穏やかな陽射しを浴びて寝ていた。
仕事の溜まっている恭介には、それを羨まし気に盗み見るのがせいせいだった。
そのヴァレリーだが、黒い毛並みに陽射しが当たりキラキラ輝いている。
白い毛並みの手足の先を四方に好きに伸ばしていた。
(こう見ると、普通の猫なんだよな……)
もっとも、それは見た目だけの話だ。
人と会話し、学者顔負けの知識を持つこの黒猫は、一条寺家の決裁書類を誰よりも厳しくチェックする"もう一人の当主"でもある。
恭介がサインしている書類も、すべてヴァレリーの確認を終えたものだった。
普通の猫のように午睡をする姿からは普段の辛辣な姿は想像できない。
先日の健康診断で「悪いところはないよ、健康優良猫だね」と獣医の関から言われたときのヴァレリーのドヤ顔を思い出し、知らず知らずのうちに口元が緩んだ。
「なにかございましたか?」
執事服姿の藤堂がワゴンを押して執務室へ入って来る。
ティーポットカバーを外し、紺色の縁取りが上品なティーカップに紅茶を淹れ始めた。
僅かな音もたてずに注ぐ藤堂を恭介は毎度のことながら、内心感心させられていた。
「いえ、先日のドヤ顔を思い出してたんです」
「ふふふ、あのときのお顔でございますか」
藤堂も目を細めて微かに笑みを浮かた。
「いつもこうなら可愛いんですが……」
「ふふふ、それではヴァレリー様ではありませんね……」
「聞こえてるぞ!」
いつの間にか起きたヴァレリーがこちらを睨んでいた。
ヴァレリーは黒く短い鍵尻尾をぱんと床に打ち付け、すたすたと歩くと執務机に飛び乗った。
恭介と藤堂を睥睨する。
「恭介、終わったのか?」
「あと少しで終わる」
「そうか。なら、藤堂、次の書類を恭介に回せ」
「はぁっ!?鬼かお前は」
「違うな。私は猫だ」
「ヴァレリー様、何かお持ちしますか?」
藤堂が寝起きのヴァレリーに問う。
「そうだな……ミルクでも貰おうか」
「畏まりました。ご用意して参りますので、お待ちください」
優雅に一礼して藤堂が執務室を辞した。
ヴヴヴヴヴヴ
マナーモードにしていた恭介のスマートフォンが震えた。
恭介は表示された名前を確認する。
遠藤正樹。
大学時代の友人のひとりだ。
頻繁に連絡をやり取りしている相手ではないが、ごく偶に会うことがあった。
(なんだ?)
「はい、千束です」
『ああ、千束か?』
ヴァレリーの耳がぴくりと動いた。
横で電話のやり取りに耳を澄ませている。
「どうしたんだ?めずらしいな」
『そうだな……』
快活だった遠藤が、なにか言い淀んでいる風なのが気になった。
「遠藤?」
『なぁ、千束、お前まだ、探偵をしてるのか?』
「まあ、しがない探偵だがな」
「過大評価だな。お前はただの愛好家だ」
聞いていたヴァレリーがぼそりと呟いた。
「っ、お前は……これでも一応」
ヴァレリーに皮肉に思わず言い返しそうになったが、電話中であることを思い出し、慌てて取り繕った。
『千束?』
「すまん。独り言だ……それで、今日はなんの用だ?」
『ああ……千束、一度会って話がしたいんだが、明日にでも会えないか?』
学生時代、いつも快活だった遠藤の声は、今はひどく暗く沈んでいた。恭介はスマートフォンを見つめたまま、小さく眉を寄せた。
「ふむ、季節外れの嵐が来そうだな……」
そう呟くと、ヴァレリーは窓の外、穏やかな青い空に目を向けたのだった。




