プロローグ 老舗酒造
アルコールシリーズ(笑)第2章、本日から投稿させていただきます。
お読みいただき、評価など頂けますと嬉しく思います。
本日は2話投稿となります。
薄暗い酒蔵の二階、低く太い梁が渡る板敷きの空間。階下の仕込みタンクから上ってくるのは、ふつふつと泡立つ醪の濃密な匂い。
それはまるで、生き物が吐き出す青い息のようであり、甘く、同時に鼻の奥を刺すような鋭いアルコールの気配を孕んでいた。
「だから、まだ時期じゃないと言っとる!」
「あんたの意見は聞いとらん!」
発酵音しかない蔵に場違いな怒声が響き渡った。
「あんたは何時もそうだ。先走る。少しは待つことを覚えろ」
「待って出したんだ」
「そうか、勝手にしろ!」
男は背を向けると、足音も高く階下に降りていった。
暫くすれば頭が冷えて戻ってくるだろうと残された当主は醪の匂いを嗅ぐ。
(もう少ししたら、酒になる)
ぎしぎしと踏み板が鳴った。
(戻って来たか)
人の気配がした。
「次の仕込みから、杜氏を変える。わかったな」
「杜氏を?」
「ああ。お前には別のことをしてもらう」
当主の冷徹な言葉が、蔵の冷えた空気を切り裂いた。
一瞬の沈黙。
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れた。
男の拳が、じわりと握りしめられた。
選ばれなかった。
その事実が、肺の奥に吸い込んだ冷たく湿った土壁の匂いとともに、重く身体に沈み込んだ。
「……私の腕では、力量不足、ということですか。私が作る酒は、味も悪くない。旨いという人もいる」
当主は窓の外、湯煙が白く立ち上る温泉街の向こうの雪景色を指さし、
「あの酒や新酒が悪いとは言わん。だが、手間暇をかけ、この山が育む水と、厳寒の空気が醸す酒。それこそがうちのすべてだ。我が蔵の伝統を伝えることが重要なんだ。お前では無理だ。伝統を継げるのは圭吾だけだ」
そう言って男に背を向けた。
話は終わりだとでもいうように。
階下からは、熟成を急ぐ醪が弾ける「プツリ」という小さな音が響く。
まるで、この蔵での自分の力量が壊されていく音に聞こえた。
「私は私なりに、この蔵を守ろうとした……それに、酒を造り続けるには、利益だって必要なんだ」
男の絞り出すような声は当主の耳には聞こえなかった。
「今年の出来は悪くない。だが……何かひとつ足りん……」
当主が湧吐で製造中の醪や酒母をすくい取り確認して呟く。
当主は階下の薄闇を見下ろした。
「伝統、伝統と……うるさいんだよ!」
低く小さな男の声は怒りに震えていた。
「何か言ったか?」
振り返った当主の肩を激昂した男の手が強く押した。
手摺りの向こうに飛び出た身体。
老朽化した二階の木製の手摺りを掴もうと伸ばした指先が空を切る。
当主の身体は、濁った西日の光を浴びながら、階下の薄闇へと真っ逆さまに落ちていく。
ドサリ。
という重い質量が激突する音。
続いて、カランという軽い音が蔵に響いた。
静寂が戻った二階の空間に、温泉の硫黄の匂いと、飛び散った生温かい醪の甘酸っぱい匂いが、異様な濃密さで立ち上り始める。
彼の衣服からは、長年、米と向き合ってきた者にしか染みつかない、蒸し米の甘い残り香と、どこか酸っぱい麹の匂いが静かに漂っている。
男は息を荒くしながら、手摺りから身を乗り出して、階下を見下ろしていた。
暫くして、ゆっくり階下へ降りる。
仰向けになった当主はピクリとも動かなかった。
側に醪がついた湧吐が転がっている。
赤黒い血が床板の溝をゆっくりと流れていった。
冷めた目で当主だった男を見下ろし、男は何事もなかったかのように踵を返した。
西日が赤黒く差し込む窓の向こうには、夕闇に沈みゆく奥羽山脈の険しい稜線が連なっている。山肌に残る万年雪が、午後四時の斜光を浴びて鈍く血のように染まっていた。
蔵の床板の隙間からは、醪の匂いに混じり、近くの温泉街から漂うほのかな硫黄の匂いが冬の冷気と共に忍び込んでいた。
蔵の影から動く人影がひとつ。
人影が動く。色の付いた房飾りだけが、夕闇の中で小さく揺れていた。




