第91話 成長の一撃
草原を切り裂くように一筋の影が疾走した。
丈の短い草がざわりと靡き、その合間を白い巨体が滑るように駆け抜けてくる。
赤い瞳がぎらりと光り、まっすぐこちらへ向かっていた。
スラッシュバニー――前回、わたしたちに苦杯を舐めさせた因縁の魔獣。
ハルカは迷わず岩場を離れ、草原との境目に広がる小さな平地へ飛び出した。
逃げるでもなく、立ち止まるでもなく――むしろ、自らを狙わせるように前へ出ていく。
その小柄な身体が、スラッシュバニーの視界に大きく飛び込んでいった。
鋭い風切り音が響いた瞬間、スラッシュバニーが高々と跳び上がる。
陽光を背に、巨大な影が覆い被さるように迫り、そのまま前肢の爪が振り下ろされ――。
「っ!」
ハルカが身を半分だけひねる。
紙一重の避け。
爪は地面へ突き刺さり、土が派手に散った。
息を呑む暇もないまま、ハルカは突き刺さったその爪に横薙ぎの蹴りを叩き込む。
鈍い衝撃が走る。
毛に覆われない爪は打撃の痛みを直に受けるのだろう。
スラッシュバニーはぴょんと後方へ跳ねて距離を取り、憎悪を宿した紅い瞳でハルカを射抜くように見据えた。
ハルカは迷わず追う。
再び前へ出て、再び攻撃を誘う。
スラッシュバニーが振り下ろす爪をひらり、ひらりとかわすたび、ハルカの脚が鋭く爪を打ち据えた。
斬れずとも、痛打によるダメージは蓄積していく。
(今だ……!)
ジュリアは横に大きく回り込み、ハルカを一直線上に置かないよう位置を取ると、両手に魔力を集中させた。
掌が熱を帯び、火花のように魔素が弾ける。
「ファイア・ボルト!」
放たれた炎矢は、いつものような鋭さを欠いていた。
それでも、さっきまでよりは遥かにマシ。
狙いは甘いが、魔力の質は確かだった。
(当たって……!)
祈りにも似た願いを込めた瞬間、炎矢はスラッシュバニーの足元へ突き刺さった。
爆風が巻き起こり、わずかばかりの焼け跡が土を焦がす。
しかし、僅かにかすめた程度で、決定打には程遠い。
(また……外した……)
胸がぎゅっと縮まる。
喉が強ばり、呼吸が浅くなる。
失敗の記憶が、脳裏に生々しく蘇る。
スラッシュバニーが赤い瞳をこちらへ向けた。
ぎらりと光る。
明確な殺意が、刺すような鋭さでジュリアへ向けられる。
「はっ!」
――無視をするなと言わんばかりに、ハルカの蹴りがスラッシュバニーの側頭部に炸裂した。
巨体が揺らぎ、注意が再びハルカに向けられる。
「大丈夫です。もう一度、チャンスを作ります」
視線を外さずに、ハルカの声が届いた。
ジュリアは唇を噛んだ。
胸に残る失敗のざらつきを、必死に振り払う。
(……わたしが、やらなきゃ。これは……わたしの役目)
魔力を練り直す。
心を、整える。
前回の討伐から数日、モンスターについて調べ直したことを思い出す。
スラッシュバニーの分厚い体毛は刃を通さず、斬撃に強い耐性を持つ。
だから、ハルカの忍刀は通らなかった。
それでもシモンは首を断った。
――あの男は、本当にただ者じゃない。
そして、スラッシュバニーの弱点は火。
わたしの魔法が決定打になる。
(問題は……どう当てるか)
魔法を撃っても外してしまうイメージが、脳裏にこびりついて離れない。
焦りが静かに心の底からせり上がってくる。
(……シモンなら、どうする?)
脳裏に浮かんだ姿。
深い呼吸。
低い声。
冷静で、優しくて、厳しい人。
ジュリアはゆっくり息を吸い、ゆっくり吐いた。
自分たちの戦力。
位置関係。
相手の挙動。
距離。
時間。
狙いどころ。
(……見える)
胸の奥から、静かに何かが立ち上がってくる感覚があった。
そのとき――。
膨れ上がる魔力に、ハルカは気づいたのだろう。
鋭い視線をスラッシュバニーに向けたまま、小さく身構える。
「ハルカ!」
ジュリアは余計な指示をしなかった。
ただ名前を、力強く呼んだ。
「はい!」
返事は力強く、迷いがない。
ハルカはスラッシュバニーの前腕の薙ぎ払いをぎりぎりで避け、その懐へ一気に飛び込む。
前傾となったその顔面――毛の生えていない鼻先めがけて、忍刀が閃く。
斬り裂かれた鼻を押さえ、スラッシュバニーは苦痛の鳴き声を上げながら大きく後方へ跳び退いた。
(――ここ!)
ジュリアは左手を突き出した。
「ファイア・ボルト!」
炎矢が一直線にスラッシュバニーへ向かって走る。
だが――。
スラッシュバニーは驚異的な反応速度で、もう一度後方へ跳び退った。
(退く……!)
その動きを、ジュリアは読んでいた。
右腕を突き出す。
「フレイム・バースト《爆裂火球魔法》!」
放たれた火球は、スラッシュバニーが着地する“その場所”へ向けてすでに走っていた。
次の瞬間――。
スラッシュバニーの巨体が、自ら爆心地へ飛び込む形となる。
火花。
閃光。
轟音。
爆発が草原の空気を揺さぶり、巨大な白い影が炎を纏って宙へと舞い上がった。
「――っ!」
やがて重い音とともに、スラッシュバニーは地に墜ちる。
炭のように焦げた体毛がぱらぱらと落ち、巨体が崩れるように横たわった。
そこから魔素が揺らめくように立ち上り、やがて朽ち始める。
ハルカは警戒を緩めず、その場に立ち続けた。
けれど、魔素が煙のように空へ上りはじめたのを見ると、ようやく肩の力を少しだけ抜いた。
ジュリアは胸に残っていたざわつきを押さえながら、深く、ゆっくりと息を吐いた。
(……できた)
その事実が、胸の奥に静かに灯りをともした。
スラッシュバニーが崩れ落ちたのを確認すると、ジュリアはほとんど反射のように駆け出していた。
胸の奥に残っていた恐怖も、勝利の安堵も、すべてを押しのけるほど強い衝動が、脚をまっすぐ前へ運ばせる。
「ハルカ!」
呼びかける声は震えていた。
息が切れていたわけでも、怪我をしているわけでもない。
ただ、胸の奥がざわつき、堰を切ったように声が溢れただけだった。
「ジュリア様。やりま――」
ハルカの言葉が終わる前に、ジュリアはその身体へ勢いよく抱きついた。
「ごめんね、ハルカ。私……また失敗しちゃった……」
因縁の敵を討ち倒した達成感よりも、魔石を回収する義務よりも、この瞬間、ジュリアが気にしているのはただ一つ――ハルカが無事かどうか、それだけだった。
予想外の行動に、ハルカの身体がわずかに揺れる。
だが驚きの動きはすぐに止まり、彼女は静かに腕を回してジュリアの背を支えた。
「問題ありませんよ、ジュリア様。私たちは仲間じゃないですか」
「ハルカ……」
顔を上げたジュリアの瞳を、ハルカは柔らかい笑みで受け止めた。
その表情は、厳しくも優しいシモンのものとは違う。
温かさの灯った、同じ道を歩く者の笑みだった。
ジュリアは抱く腕をそっとほどき、こくんと小さく頷く。
けれど俯いたまま、唇だけがかすかに動いた。
「……あ、あのさ……」
「どうしましたか? ジュリア様」
すぐに続きを促してくれる声は柔らかい。
だがジュリアは言い淀み、言葉を探すように小さく息を吸う。
「……その、『ジュリア様』っていうの、やめない?」
「え?」
ハルカの目がわずかに見開かれた。驚きと戸惑いが同時に浮かぶ。
「だって、仲間なんでしょ? 仲間なら“様付け”とか遠慮とか……そういうの、無い方がいいと思うの」
「し、しかし……」
ハルカは視線をさまよわせ、迷いの色を隠せずにいた。
それを見たジュリアは、ほんの少しだけ頬を膨らませるように、不満を滲ませた視線を向ける。
言葉にしきれなかった想いが、その表情に宿っていた。
やがて――。
「……わかりました。ただ……お互い立場もありますし、“冒険者である時は”という条件で、どうでしょう?」
「……わかったわ」
ジュリアはぱっと笑顔を咲かせた。
ハルカの提案は妥協ではなく、ハルカなりの誠意だと、胸の奥で自然に受け止められた。
そして、期待を込めた瞳を向ける。
「じゃあ、早速呼び捨てで呼んでもらいましょうか」
「え? い、いきなりですか? ……えっと……あの……」
急に振られたハルカは、さすがに狼狽した様子で言葉を失う。
忍刀を構えてスラッシュバニーに飛び込むときよりもずっと弱々しく、眉尻が下がっている。
ジュリアはその様子を、目をきらきらと輝かせながら待つ。
完全に“期待している顔”だった。
「……ジュ、ジュリア」
消え入りそうな小声。
それでも確かに“呼び捨て”の一言だった。
「よろしい」
満足げに頷くジュリア。
ハルカは恥じらいをごまかすように咳ばらいをし、わざと表情を整える。
「コホン……呼び捨ての件は追々慣れるとして――“遠慮”のほうも改善しましょうか。これからは思ったことをそのまま口にしますので、覚悟してくださいね」
ふわりと微笑むハルカ。
――だが、その瞳だけはどこか鋭い。
「え?……え?」
見たことのない表情に、ジュリアは思わず固まった。
その反応がおかしかったのか、ハルカが今度は本当に柔らかく笑い、ジュリアも口を尖らせながらつられて笑った。
ふたりはしばらく、戦いの直後とは思えないほど穏やかに笑い合った。
ふと空を見上げれば、いつの間にか陽は落ち、草原には淡い夕闇が満ち始めていた。
八咫で言うところの“逢魔が時”。
昼と夜の境界が曖昧になる、妖気が漂う時刻。
二人はまだ気づいていない。
戦いは、まだ終わっていないことに。
夕闇の向こうから――二人を見つめる悪意と敵意が、確かに息を潜めていることに。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
力を合わせて因縁の敵を倒し、ようやく笑い合えたジュリアとハルカ。
二人の距離が縮まった場面をどう感じましたか?
夕闇の向こうに潜む存在への予想も、ぜひコメントで教えてください。
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これからもよろしくお願いいたします。




