第90話 迷いの告白と解放の真意
秋の陽はやわらかく岩肌を照らしていたが、その光はジュリアの胸の内までは届かなかった。
二人が腰を下ろす岩場には、言葉にしがたいぎこちなさが漂っている。
ハルカは少し離れた位置に座り、静かに呼吸を整えつつ、なお周囲への警戒を解いてはいなかった。
ジュリアはベルトに下げた水筒を手に取り、喉を湿らせる程度に一口含んだ。
冷たい水は確かに渇きを癒したが、心のささくれまでは触れてくれない。
唇を離した瞬間、微かな風が頬を撫でた。
秋の冷たさは戦闘で火照った身体を落ち着かせたものの、その涼しさがかえって自身の不甲斐なさを呼び覚ますようだった。
先ほど、ほんの一瞬だが躊躇があった。
魔法を放つべき瞬間、身体が言うことをきかず固まってしまったのだ。
討伐自体は問題なく終わったとはいえ、その時の感触だけが心の奥にざらつくように残り、いまも離れてくれない。
(わたしは……こんなにも、弱かったのだろうか)
俯きかけた視線は、そのまま心まで引きずって、沈んでいくようだった。
気づけば思考は暗い方へと傾きはじめる。
しかし――ジュリアは静かに首を振った。
(……違う。これは実力の問題じゃない)
自分にそう言い聞かせると、落ち着きを取り戻しながら、今の状態をひとつずつ紐解いていった。
訓練のときも、前回の実戦でも、ここまで動けなくなることはなかった。
少なくとも今よりはずっとマシだった。
だとすれば、今日に限って力を発揮できない理由は、技術でも魔力量でもない。
心だ。
もっと言えば――心の弱さ。
(わたしは……こんなものじゃない)
それは小さな強がりにすぎなかった。
自分を保つための、薄い殻のような意地。
しかし……それでも――せめて自分自身にだけは失望するまいと、ジュリアは胸の奥で必死に踏みとどまっていた。
ふと視線を横へ送る。
その先に映ったハルカの横顔は、深い静けさに満ちていた。
目を閉じているようにも見えたが、耳は風の気配を逃さず拾い続け、意識は絶えず周囲へ巡らされている。
休息を取りながらも警戒を途切れさせない――穏やかな外見の奥に、研ぎ澄まされた緊張が確かに息づいていた。
ジュリアは思わず息を呑む。
いまのハルカは――シモンと同じ空気を纏っていた。
冒険者としての在り方。
状況の把握と、心の置き所。
揺るがぬ姿勢。
その佇まいには、今の自分に欠けている“何か”が確かに形を持っているように思えた。
何かは分からない。
ただ、その強さが目に痛いほど眩しく、真っすぐ見つめることができなかった。
「…………ハルカ」
気づいたときには、名前が口をついていた。
「どうしましたか?」
ハルカが振り向く。
表情は自然そのものだが、その目には揺るぎない意志が灯っている。
先ほどの戦闘でも見せていた光――ぶれず、迷わず、必要な行動を選び取る目だった。
ジュリアは悟った。
いまの自分には、この“揺らがない目”がないのだと。
「ううん……何でもないの」
胸の奥にあるのが引け目なのか、負い目なのか――自分でも判然としない。
ただ、素直に訊く勇気が持てず、視線は思わず逸れてしまった。
(やっぱり……わたし、子供なのかな。シモンも、こんなところに呆れて……見放したのかな……)
気づけば俯いていた。
喉の奥から、小さなため息がこぼれる。
その音は、静かに岩場に染み込んでいった。
沈黙が、ふたたび二人のあいだに落ちていた。
言葉を失ったジュリアの胸の内側で、その静けさがじわじわと広がり、また思考を悪い方へと引きずり込もうとする。
(やっぱり……わたしなんて)
暗い呟きが喉の奥までせり上がりかけた、そのときだった。
「昨日、テラノス様と話す機会があったのです」
不意に、ハルカが口を開いた。
突然の語りかけに、ジュリアの心がわずかにざわつく。
顔を向けることはできなかったが、耳と胸の内だけはしっかりと彼女の方へ向け、続きの言葉を待った。
「昨日までは、シモン様を失望させてしまったとばかり思っていました。浅ましい功名心を恨み、自分の存在意義さえ分からなくなっていたのです」
乾いた風が、二人の間を吹き抜けていく。
ジュリアは黙ったまま、その一言一言を噛みしめた。
前回の戦いで、ハルカもまた心に深い傷を負っていたことは知っていた。
己の在り方を見失い、苦しんでいたことも、いつも隣にいたからこそ分かっていた。
お互いに迷い、悩み、苦しんでいたのだ。
それなのに――互いのそれを見て見ぬふりをし、自分を取り繕い、誤魔化し続けてきた。
けれど、昨日を境にハルカは変わった。
昨日までのハルカと、今こうして隣にいるハルカは、まるで別人のように見える。
一体何が彼女をここまで変えたのか――その疑問が、自然と胸の中で形を取っていく。
ジュリアのそんな心の揺れを察したかのように、ハルカは言葉を継いだ。
「テラノス様に、功名心そのものを否定する必要はないと教えていただきました。そして、シモン様の信頼を失ってなどいないのだと」
そう言うと、ハルカは自分の胸元にそっと手を当てた。
自分の心が本当にそう感じているのかを、確かめるような仕草だった。
「ジュリア様。前回の討伐の帰りに……お屋敷の前で、シモン様がおっしゃった言葉を覚えていますか?」
問い掛けに、ジュリアはすぐ思い当たる。
(ジュリア……お前は死んでいた)
(今のお前たちに、俺は背中を預けられない)
胸をえぐるような、あの二つの言葉。
思い出した瞬間、喉の奥が固くなる。
その言葉を自分の口でなぞることはどうしてもできず、ジュリアは小さくうなずくことで答えに代えた。
ハルカは軽く目を伏せ、静かに続ける。
「苦しかった……本当に、苦しかったです。お守りするはずのジュリア様を、自分の身勝手な功名心で危険に晒したと責められ、自らの主君と心に決めたシモン様にも、見切りをつけられてしまったのだと、ずっと思っていました」
一つ一つの告白が、刃のように胸に刺さる。
ジュリアは息を呑んだまま、次の言葉を待った。
「……でも、違うのだと気づかせてもらったのです」
(えっ?)
思わず、ジュリアはわだかまりも忘れてハルカを見つめていた。
「シモン様は、わたしたちに現実の危機を突きつけてくださった。その上で、もっと強くなってほしいと願って……あの言葉を選ばれたのだと。そう教えていただきました。だからこそ、私は――もっと精進しなきゃ、って思えたのです」
ハルカを見つめるジュリアの瞳が、細かく揺れる。
どうして、そこまで前向きに受け止められるのか。
ジュリアには理解できなかった。
震える唇からは、しばらく言葉が出てこない。
それでも、胸の奥から押し寄せてくる衝動に、わずかな勇気を乗せて――ジュリアは、意を決して声を絞り出した。
「…………ど、どうしてそんなことが分かるの? 自分に都合よく、解釈してるだけじゃないの?」
「……どうでしょう?」
ハルカは首をかしげ、けれど迷いのない声で答える。
「確かに、直接シモン様に確認したわけではありません。でも……シモン様らしい、発破の掛け方だとは思いませんか?」
その言葉を聞きながら、ジュリアは無意識に自分の胸に手を当てていた。
強くて、優しくて、少し意地悪な大人の冒険者。
そして――いつも私のことを考えてくれている人。
思えば思うほど、ハルカの言葉が胸の中に落ちていく。
少しずつ、少しずつ、胸に染み込み、心に広がっていく感覚があった。
けれど、胸の奥にはまだ否定しきれない澱が残っていた。
どうしても消えない影。
それを否定してほしくて、ジュリアは思わず口を開く。
「だったら……なんで、今ここにシモンはいないの。私たちは……やっぱり見放されたんじゃないの?」
堪えていた感情が波のようにあふれ、声がわずかに震えた。
ハルカは責めるような色を一切浮かべず、ただ穏やかに、しかししっかりとした声音で答えた。
「それは――信頼されているからだと思います」
「…………信頼?」
思いもよらない言葉に、ジュリアは小さく息を呑む。
理解が追いつかず、ただ同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「はい。私たち二人なら大丈夫。二人だけで、この巡回討伐を乗り越えられる。だからこそ……シモン様は送り出してくださったのだと思います」
その言葉が胸に入り込んだ瞬間、固くこびりついていたざらつきが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
心のどこかで握りしめていた不安がほどけ、代わりに得も言われぬ温かさが満ちはじめる。
――シモンは、見放してなんていない。
そんな確信めいた思いが、胸の奥で静かに灯りをともした。
その時だった。
「ジュリア様、来ます!」
さきほどまでの柔らかい声音から一転して、鋭い警戒の響きが走った。
ハルカの視線が素早く草原の向こうへ向けられる。
ジュリアも思わずそちらに目を凝らした。
揺れる草原をかき分けるように――黒い影が一直線に駆けてくる。
スラッシュバニーだ。
つい先ほどまで心が揺らぎ続けていたというのに、またも“あの”敵。
前回、自分たちに苦汁を味わわせた因縁の相手。
胸の奥にわずかな恐れがよぎった。
だが、それよりも先に――ジュリアの瞳に、静かな光が宿りはじめていた。
揺らぎの影が、少しだけ後退していく。
恐れと迷いの隙間から、戦う意志が顔を出し、じわりと形を成していく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
シモンの厳しい言葉と不在を、「見放された証」ではなく「信頼の証」だと語ったハルカ。
その言葉を受け、少しずつ迷いから解放されていくジュリアをどう感じましたか?
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