第89話 煩悶少女と闊達少女
秋の空はよく晴れていたが、ジュリアの胸の内は晴れきらない曇り空のままだった。
ワイアース北門を抜け、街道へと続く緩やかな坂道を、彼女はハルカと並んで歩いていく。
朝の光はやわらかく、街道脇の草むらには露が残り、風は冷たすぎず心地よい――はずなのに、肩の力だけはどうしても抜けなかった。
今日は二人だけでの巡回討伐だ。
シモンは同行しない。ギルドで送り出してくれた彼の姿を思い返すと、じわりと掌に汗が滲む。
(本当に……二人だけで、大丈夫なのよね……?)
隣を歩くハルカの横顔は、昨日までとは打って変わって晴れやかだった。
背筋はまっすぐ伸び、足取りも軽い。
迷いの影はどこにも見えない。
(昨日まであんなに悩んでいたのに……どうして、そんな顔で前を向けるのよ……)
胸の奥でそんな小さな呟きが生まれ、ジュリアは自分でもその卑屈さが嫌になり、唇をきゅっと結んだ。
「……ジュリア様」
周囲を警戒していたハルカが、そっと声だけ落として呼びかけてくる。
「うん、分かってる」
ジュリアは頷き、意識を目の前の現実――街道の先へと切り替えた。
ここはワイアース北側へ伸びる街道。
荷馬車の往来も多く、危険地帯というわけではないが、森と草原が入り混じる地形ゆえ、はぐれたモンスターが顔を出すことは少なくない。
やがて、街道脇の低木が風とは別のリズムでがさりと揺れた。
「来ます」
ハルカが短く告げた瞬間、黒光りする影が茂みから飛び出した。
体長は五十センチほど、角を含めれば七十センチ近い。
黒い甲殻は朝日を鈍く反射し、頭部から伸びる一本角が、地面を抉るように土を擦っていた。
スティングビートル――大型の甲虫型モンスターである。
「前に出ます。援護、お願いします」
「え、ええ……!」
ハルカは返事を待つ間すら惜しいとばかりに、一歩前へ踏み込んだ。
甲殻に覆われた前脚が振り下ろされ、小石と土が弾け飛ぶ。
ハルカはその直撃を紙一重で避け、すれ違いざまに側面へ蹴りを叩き込んだ。
重いはずの身体がぐらりと傾き、体勢を持ち直そうとしたその瞬間――動きが一拍遅れた。
(今……!)
ジュリアの手元に魔力が集まる。
炎を矢に変える初級魔法――ファイア・ボルト《単体炎矢魔法》。
何度も何度も練習してきた、もっとも馴染んだ魔法。
魔力を指先に集め、狙いを定め、放つだけ。
それだけのはず……なのに。
しかし、脳裏に別の光景が割り込んだ。
燃えさかる炎。
ハルカの背中。
自分の魔法が、彼女を爆発に巻き込んだ、あの瞬間。
(――もし少しでも狙いがずれたら……)
その考えが胸をよぎっただけで、指先に収束していた魔力は、不安に揺さぶられたように震え、やがて霧散していった。
「……っ」
躊躇した一拍の間に、スティングビートルは体勢を立て直した。
傾いだ身体を甲殻の重みで無理やり戻し、再び角を低く構える。
「ジュリア様、下がって!」
ハルカの声が飛び、ジュリアは反射的に一歩退いた。
次の瞬間、甲虫が地面を蹴り、低い突進でハルカめがけて迫る。
しかしハルカは逃げなかった。
逆に一度引いた足で地を踏みしめ、角の軌道を読むように半身になって身を翻す。
角は紙一重で脇を抜け、甲虫の身体がわずかに前のめりになる。
その瞬間、ハルカは滑り込むように懐へ飛び込んだ。
黒光りする顎の付け根――甲殻に覆われていない柔らかな喉元へ、迷いのない動きで忍刀を突き立てる。
甲虫の身体がびくりと跳ね、やがて力を失って崩れ落ちた。
羽根が空しく震え、甲殻が土を打つ鈍い音が耳に残る。
ジュリアの肩から、ずるりと力が抜けた。
(……撃てなかった)
息を吐いたつもりが、喉の奥でひゅ、と空気が擦れるだけだった。
ハルカは忍刀についた血と体液を手早く振り払い、鞘に納めると、振り返って柔らかく微笑む。
「ジュリア様、大丈夫ですか?」
「……ええ。そ、その……」
本当は「ごめん」と素直に言えばいい。
けれど、喉元まで来た言葉は、不甲斐なさが絡まって出てこない。
代わりに、握りしめた自分の指先ばかりが痛かった。
「気にしないでください」
ハルカはさらりと言ってのけた。
「今日は、まだ始まったばかりです。次、行きましょう」
その明るさが、かえって胸に刺さる。
責めるでもなく、慰めるでもなく、当たり前のように前を向いているその背中が、遠く見えた。
(どうして、そんなふうに笑えるのよ……)
ジュリアは唇を噛み、黙って頷いた。
北へ伸びる街道の東側には平原が広がり、そのさらに向こうには、ゆるやかな草原が続いていた。
西側には開拓された更地が横たわり、その先には濃い影を落とす森が控えている。
乾いた土の上には荷車の轍がくっきりと刻まれ、その脇を、二人は警戒を怠ることなく進んでいった。
やがて、平原の岩場の近くに、低い唸り声と甲高い鳴き声が混じったような気配が耳に届いた。
「……コボルト、ですね」
ハルカが足を止め、岩場の先を睨む。
ジュリアもつられて視線を向けた。
次の瞬間、四つの影が飛び出す。
犬に似た顔を持つ小柄な獣人――手には粗末な槍や棍棒を握り、黄色い牙を剥き出しにしていた。
尻尾と耳がせわしなく動き、興奮と敵意を隠そうともしない。
「前は抑えます。ジュリア様、お願いします」
「……ええ!」
今度こそ、とジュリアは自分に言い聞かせる。
ハルカが一足先に飛び出し、四体のコボルトの正面に立ちはだかった。
槍が突き出され、棍棒が唸りを上げる。
それらを、ハルカは最小限の動きで避けながら、逆に敵の足元へと蹴りを入れて位置取りを乱し、更に蹴りを入れてコボルト同士がぶつかり合う。
「今です!」
ハルカの声が飛ぶ。
コボルトたちが一瞬、動きを止める。
その隙間に、まとめて焼き払える――はずだった。
(やれる……私だって、これくらい――)
ジュリアは拳を握り、魔力を呼び起こした。
左手に熱が集まり、炎の気配が立ち上る。
狙うは、群れの中心。
炎矢が、生まれる。
次々と放たれる炎矢が空気を裂き、赤い軌跡が走った。
だが、コボルトたちは予想以上に素早く、炎の矢の直撃を受けたのは一体だけだった。
残りの三体は、横へ飛ぶように散開する。
「くっ……!」
焦りが胸を締め付ける。
ジュリアはすぐさま魔力を練り直し、新たな炎矢を放った。
だが、狙いは甘い。
焼け焦げた土が弾け、熱風が草を焦がすばかりで、コボルトを捉えられない。
焼き落ちた草の隙間に、倒れ伏した一体のコボルトが見えるだけだった。
(たった一体……?)
自分の目を疑う間にも、残った三体がこちらへ向き直る。
ハルカはその動きを一瞬で視界に収めると、地を蹴った。
「ジュリア様、下がって!」
「っ――!」
ジュリアは後方へと数歩下がり、体勢を立て直す。
ハルカは先頭のコボルトの懐へ飛び込み、側頭部へ渾身の回し蹴りを叩き込んだ。
小さな獣人の身体が宙を舞い、地面に転がる。
続けざまに、もう一体のコボルトの顎を下から蹴り上げた。
蹴り足をそのままに一本足で呼吸を整えると、そのまま踏み込み無防備に落下してくるコボルトの胸に正拳を打ち込み、遠くまで吹き飛ばした。
最後の一体は一瞬怯んだが、すぐに棍棒を構え直して突進してくる。
大ぶりの一撃はハルカに触れることなく、地面を叩いた。
ハルカは棍棒を踏みつけると同時に、腰に収めた忍刀を抜き放ち、間髪入れずコボルトの喉元を切り裂いた。
悲鳴すら上げさせず、最後の一体も息絶えた。
残されたのは、焦げた土と、焼けた肉の匂い、血の鉄臭さだけだった。
「……ごめんなさい」
気づけば、言葉が漏れていた。
ジュリアは自分の両手を見つめたまま、うつむく。
「もっと、ちゃんと狙えたはずなのに……私、一体しか……」
情けなさで声が震えた。
ハルカは手早く魔石を回収し終えると、ゆっくりとジュリアに向き直り、首を振った。
「謝ることじゃありません」
「でも――」
「お互い助け合ってこその仲間じゃないですか」
柔らかな声で、淡々と言う。
責めるでも、慰めすぎるでもない、不思議な距離感だった。
「一段落尽きましたし、少し休憩しましょうか」
そう言って、ハルカは微笑んだ。
その笑みが眩しすぎて、ジュリアは顔を上げられない。
(どうして……どうしてそんなふうに笑えるの)
胸の奥で、再び小さな嫉妬の棘が疼いた。
ハルカの優しさ、明るさ、余裕、その全てがつらい。
否が応にも自身の情けなさを見せつけられているようだった。
だが、今のジュリアには、ハルカの言葉を撥ねつけるだけの気概も、強がるだけの気力も残っていなかった。
結局、ハルカの背についていき、周囲を見渡せる岩場に腰を下ろす。
胸の奥に溜まった自己嫌悪を、深い溜め息に乗せて吐き出した。
けれど、少しも気分は晴れなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
思うように力を発揮できず、ハルカの優しささえ苦しく感じてしまうジュリア。
そんな彼女の葛藤と、変わらず寄り添うハルカをどう思いましたか?
印象に残った場面や台詞があれば、ぜひコメントで教えてください。
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